「筋肉」



                                  筋肉レバレッジ・トレ−ニング

・・「はじめに」・・


  人体は、「生命体」・「意識」・「肉体」の三大要素によって構成されており、殊に老人にとって問題とされるQOC
 と呼ばれる生活の質は、これらの絶妙のバランス無くして成り立つものではなくありませんが、このバランスは非常に脆
 弱なもので、精神の疲労や肉体の病気及び加齢による筋肉萎縮などによって容易に崩れてしまいます。然し、一度壊れた
 バランスを立て直すのは容易ではなく、年齢的余裕のある中であればまだしも、それが加齢によるものであれば、生活の
 質を落としたままの不本意な人生に終始する事になりかねません。
 
  人体は良くも悪くも互いの相乗効果によって成り立っており、意識の不都合が肉体と生命に危険を及ぼし、肉体の損傷
 がそのまま生命と意識の危機に直結し、旺盛な生命力が肉体と意識を救うなど、互いが足を引っ張り合ったり助け合いな
 がら一連托生の関係を築き上げていますが、他方で「精神力堅固」・「生命力旺盛」・「身体丈夫」など意識・生命体・
 肉体の何れかが強烈なリーダーシップを発揮する事によってもバランスを保つ事ができます。

  然し、残念ながら中国の秦始皇帝が「不老不死」の妙薬を求めてこの方、「生命体」を単一で鍛え上げる方法は未だに
 発見されておらす、人間が意図的に旺盛な生命力だけを養って生きる事は現時点では不可能です。「意識」においても、
 精神面を鍛えると云う類の宗教や書籍が氾濫していますが、一過的に鍛えるのならまだしも一生涯に亘って精神面を鍛え
 る事は、人間が人間としての生活をしている限り非常に難しいもので、お金と地位と人間関係に恵まれた人が精神修行を
 して悟った気持ちになっても、その根底が覆れば精神も自ずと荒廃してしまいますし、そもそも人間の精神力が鍛えられ
 ると云うのは単なる錯覚でしかありません。お寺の本堂で如何にも精神面を鍛えて悟りましたと云う風貌で鎮座する仏様
 の顔も、生活の苦労が無いからこそ出来るのであり、人間界で普通の生活をしていればあんな顔が出来るものではありま
 せん。我々が精神を鍛える唯一の方法は、執着を一つ一つ捨てていく事で、それによって生活の不安や病気の恐れも確実
 に克服する事ができますし、最終的には死ぬと云う恐怖をも克服する事が出来ますが、結果的に生きる意義を見失うのは
 見え透いており、そんな状態の人間が社会で行き抜く事など檻の中で飼育されない限り不可能です。

  人間が唯一継続して鍛える事が出来るのは「肉体」だけですが、残念ながら科学を駆使する事によって筋肉の仕組みは
 徹底解明しながらも、その筋肉を鍛える領域に於いては全くの手探り状態であり、筋肉トレーニングに活路を求めて切磋
 琢磨しているスポーツ関係者や医療関係者でさえも、人類に貢献するほどの筋肉トレーニングには程遠いレベルで模索し
 ているのが現状です。
 
  当、筋肉レバレッジ・トレーニング研究所が開発した筋肉トレーニングは、現在行なわれている一般的筋肉トレーニン
 グの根底を覆すものであり、このトレーニング方法が市民権を得る事によって、スポーツ関係や医療関係に及ぼす影響に
 止まらず、老人の生活の質改善から精神の育成や病気の予防など、その影響力は計り知れません。

  現在一般的に行なわれている筋肉トレーニングには思いの外危険が潜んでおり、専門家の指導の下で適正に行なわなけ
 れば、鍛えていた積もりが怪我に泣くと云う事にもなりますし、病人や老人が良かれと想って始めたトレーニングが逆効
 果と云う結果を招く事も多々あります。また、スポーツ選手が専門家の指導の下で適正に鍛えたはずの筋肉が故障の原因
 となって引退に追い込まれる事も珍しくはなく、専門家の間でもトータル的な見地に立ったトレーニング方法が確立され
 ているわけではありません。

  この筋肉レバレッジ・トレーニングは、これまで行なわれてきたものとは全く異質のものであり、マシーンやダンベル
 などの器具を一切使用する事もなく、腕立て伏せや腹筋を強化させる運動なども行ないませんから病人や老人にも無理な
 く出来ますし、日常生活で使う筋肉を鍛える事をモットーとしている為に、新聞を読みながら、テレビを観ながら、歩き
 ながら、立ちながら、座りながら、寝転びながら、車を運転しながら、その時その状況による日常生活の活動範囲の中で
 十分に鍛えられるので、青年期をすぎて筋肉が萎縮し始める年代になれば、この筋肉トレーニングを日常的に行なう事が
 不可欠です。

  本稿では、筋肉レバレッジ・トレーニングの仕組みを説明するに当たり、寿命、重力、脳、成長ホルモンなど筋肉トレ
 ーニングとは無縁と想われる事柄にも言及していますが、筋肉トレーニングに限らず、総ての事象は必ず何某かの脈略や
 連帯の上に成り立っており、直面する問題だけに解決策を求めてしまうと、意に反して本質から遠ざかる傾向が多々見受
 けられます。現在行なわれている一般的トレーニングは、そう云った意味に於いて筋肉を肥大させると云う局面に囚われ
 る余りに、それがシステムとして機能するものであると云う根本的な発想に欠けています。

  人体に不可欠である筋肉に限らず、心臓が如何に重要で脳が全能であろうと、人体を構成する総てのものは歯車の一つ
 に過ぎませんが、筋肉と云う基本的な歯車が萎縮してしまう事によって総ての歯車が狂い出します。逆に言えば、筋肉と
 云う中心的歯車が力強く機能する事によって、人体の健康バロメーターとも云うべき新陳代謝が正常に機能し、免疫力も
 自然治癒力も高まり、全体的歯車が正常に機能し出すと云う事でもあります。

  尚、筋肉には種類や役割など様々ですが、レバレッジ・トレーニングで云うところの筋肉とは骨格筋の事であり、脳が
 操る事の出来る骨格筋を積極的に鍛える事が、その支配の及ばない不随筋にも想わぬ相乗効果をもたらす事は大いに期待
 の持てるところです。


・・「人体と骨格筋」・・



  人体は、脳・脊髄・心臓・肝臓・肺・腎臓・脾臓・すい臓・胃・十二指腸・小腸・大腸・直腸など様々な役割を担う臓器
 と骨、その骨を動かす骨格筋と全身に張り巡らされた血管、そして無数の酵素や脳の重さに匹敵する大腸菌の働きによって
 動く、言わば自家発電型総合循環器であり、その主導権を握っている骨格筋は人体のエンジン機能そのものである。骨格筋
 が萎縮し、その働きが衰退した人体はエンジン機能の低下した車と同じであり、折角備わった性能を活かす事はおろか自在
 に動く事もままならないのである。
  
  一般的に老化とは加齢によって必然的に起こる現象と考えられ、死と共にどうする事も出来ない現象と云う観念があるが、
 死ぬ事と老化には根本的な相違がある。元気と病気に関わらず、老若男女を問わず、死は生まれてきた時からの約束事であ
 り、寿命の長短はあるとしても避けることの出来ない決定事項であるが、老化に関する個人差は歴然として存在する。七十
 歳そこらでヨボヨボになり、歩く事もままならない老人が介護施設の世話になっているかと思えば、方や現役として日夜農
 作業に励み、豚カツを肴に晩酌を楽しむ百歳の老人がテレビで紹介されている現実は、年齢の差によるものでも性別に由来
 するものでもなく、ただ単に骨格筋が萎縮しているか健全に稼動しているかの違いでしかない。人間は年老いたからヨボヨ
 ボになるのではなく、骨格筋が萎縮するからヨボヨボになると云う現実を直視した上で加齢に対応していかなければ、人類
 が老いる事に喜びを感じる日は永遠にやって来ない。

  健康被害が懸念されるメタボリックは、今や社会的関心事であるが、これも骨格筋が衰える事によって引き起こされる弊
 害であり、適正な骨格筋が維持されていれば無闇に太ったりはしない。人体は、活動に必要なエネルギーを食事によって摂
 取し、余ったエネルギーは脂肪などの形で貯蓄しており、「体は銀行、脂肪は貯金」「皮下脂肪は定期貯金、内臓脂肪は普
 通貯金」「筋肉は、貯金の浪費家」と云う構図になっているが、骨格筋が萎縮し始める中年ごろから、徐々に需要と供給の
 バランスが崩れてくる。若い間は殊更筋肉トレーニングなどしなくても、それなりの骨格筋が維持されている為に新陳代謝
 も旺盛であり、余ったエネルギーが脂肪として貯蓄される事も少ないが、中年頃になると骨格筋の萎縮が始まり、肉体は徐
 々に省エネ型体質へと移行して行くのであり、若い頃と同じ食生活を続けていけば需要よりも供給の比重が高くなって貯蓄
 高が上がるのは必然的である。飢餓との戦いに明け暮れた歴史を持つ人体が、これ幸いに余ったエネルギーを脂肪として蓄
 え始める事によって、メタボリック・シンドロームへの幕は切って落とされるのであり、それはまた確実に忍び寄る人体の
 滅びへの序章でもある。

  食糧事情の整った社会の中で人体が陥る先は肥満であり、それは如何にして痩せるかを競うダイエット関係の書籍が、入
 れ替わり立ち代り書店の棚を賑わしている事が物語っている。然し、ただ単に痩せるだけを目的とするならば手段を選ぶ必
 要はないが、健全な肉体を保つと云う前提であれば、安易なダイエットはすべきではない。人体に於ける体重の増減に関わ
 る要因は、「筋肉に因る摂取エネルギーの需要と供給のバランス」「脳に因るストレスなど精神のバランス」「姿勢の歪み
 に因る肉体のバランス」に大別する事が出来るが、取り分け脳にとってエネルギーの貯金である脂肪は非常に重要なもので、
 過剰な食事制限によるダイエットは、苦痛であるばかりか生命の危機に直面する問題であり、バナナやキャベツだけを食べ
 て人生を送るなど、脳に科せられた拷問以外の何ものでもなく、一時的に痩せても必ず脳は元に戻る努力を怠らないのであ
 る。ダイエットの本来は、「骨格筋の維持」「精神の安定」「姿勢の矯正」「食事の節度」を護ることであるが、これはま
 た人体が健全さを保つための必須条件でもある。

  現代人が常に懸念するところである、健康、老化、病、肥満、のキーワードは筋肉であり、骨格筋を重点的に鍛えるので
 れば、人体は老化する事さえ容易ではなく、安易に太る事も易々と病の虜になる事も無いのである。人間が生まれ以て与え
 られた最大の武器は骨格筋であり、その筋肉の恩恵を享ける事も忘れて、老いて後に人体の不都合を嘆くのは何としても避
 けたいものであるが、如何に骨格筋が重要とは云え、闇雲に筋肉を鍛えても功を奏すると云うものではない。手当たり次第
 に筋肉トレーニングを行なえば、筋肉が身に付く前に故障し、更に故障する前に挫折するのが現在行なわれている筋肉トレ
 ーニングのレベルなのである。

  筋肉には、「負荷を逃がす仕組みを持つ」「日常生活に適応する筋肉は容易に肥大しないが、適応しない筋肉は肥大し易
 い」「連動する事によって力を発揮する」、と云う基本的な資質があり、日常生活はそれが機能する事によって支障なくお
 くれるのである。仮に骨格筋に負荷を逃がす仕組みが無ければ、人間が歩き続ける事は不可能になるだろうし、日常生活で
 使う筋肉が日常的負荷によって簡単に肥大していくのであれば、いずれ筋肉仕事で生計を立てる事は困難になる。また、骨
 格筋が連動する事がなければ人体は効率よく筋力を発揮する事は難しく、スポーツがこれほど発展する事も人類が万物の霊
 長を標榜するに違わない筋肉運動を手にする事も適わなかったのである。

  本来骨格筋は、正しい姿勢を維持しながら負荷を掛け、使う事と休む事を適正に続けるのであれば殊更に鍛える必要はな
 いが、文明の恩恵に浸りきって肉体労働から遠ざかった現代人は、スポーツか筋肉トレーニングにでも頼らない限り、使わ
 ない事によって起こる不活性萎縮から筋肉を護る事は難しいのが実情である。然し、腹筋などは殊更に鍛える必要はなく、
 に乗じる生活に馴染んだ人体は、不活性萎縮と云う筋肉の原理によって、どんどん弱体化しています。殊に腹筋などは正し
 正しい姿勢さえ保っていれば易々と衰える事はないし、むしろ背筋などは必要だからと重点的に鍛えれば、筋肉間のバラン
 スを欠いて返って不都合が生じることになる。筋肉トレーニングによって筋肉を鍛えるに於いて忘れてはならない事は、日
 常生活に使わない筋肉は維持できない事と、パーツ単位で鍛えた筋肉は連動しにくいと云う筋肉の仕組みであり、これを留
 意して行なわない限り折角肥大した筋肉も、トレーニングの中止と共に無残にも脂肪へと置き換わり始めるのである。


・・「筋肉の仕組み」・・


  人体は二百六個の骨によって形成され、その骨を動かす筋肉は五百とも六百ともいわれているが、それらの筋肉は大きく
 分けて二種類に分類する事が出来る。一つは大脳の指令によって動くことを特徴とする骨格筋で、その形状から黄紋筋と呼
 ばれており、仕事、スポーツ、日常生活等などの総ての動作はこの筋肉に支配されており、この筋肉が動かなければ人体は
 指一本動かす事も眉一つ動かす事も出来ない。もう一つは平滑筋と呼ばれるもので、この筋肉は内臓全般を形成し、大脳の
 支配を全く受ける事はないが、唯一心臓を形成する心筋だけは、骨格筋でありながら大脳の支配を受ける事は無い。

  筋肉の仕組みを探る上において留意しなければならないのは、脊髄反射や内臓の活動のように筋肉が脳の支配だけを受け
 て動いているわけではないと云う事情であり、筋肉の活動には脳以外の第三の意思も秘められていると云う実態である。人
 間を単体として捉えた場合、脳の存在は絶対的なものであり、人体の総ては脳によって支配されていると言っても過言では
 無く、現実問題として我々もそう認識して生きているが、医療現場では脳が死んでも内蔵は元気に働いている事例は何等珍
 しい事ではない。我々は、一個の人間としての存在の前に人類の種としての役割を担っており、如何にして優良な種を次世
 代に残すかの仕事は我々の存在以前のところから無意識にインプットされている使命であるが、生命体とも呼ぶべき種の支
 配は、それだけに止まらず人体の中核である脳でさえも、その支配下にある事を避けられないのである。

  人体は、「肉体を司る筋肉」と「意識を司る脳」、そして「種の存続を司る生命体」からなる化合物であり、どれ一つ失
 っても人間として存在する事は適わないが、これらが共存共栄を図れるか共倒れをするかの命運は脳と筋肉の働き次第であ
 る。然し、心筋が骨格筋でありながら直接的に大脳の指令を受けず、脳が創りだす苦悩によって治外法権である胃袋が病み、
 意識力が衰える事によって生命力が脅かされるように、其々の間に明確な間仕切りがあるわけではなく、筋力が支配する肉
 体と脳が支配する意識が共存共鳴し、生命力はそれらの状況に応じて随行すると云う運命共同体なのである。

  脳の中には、種を存続させる為の様々なデーターが組み込まれているが、それは如何にして強靭で優秀な種を連綿と存続
 させるかの一点に絞られており、思考力や筋力の衰退した人体には、その状態を不要と看做す生命体レベルの作用が働き、
 自滅とも云える廃用スイッチのようなものが作動すると考えられる。筋肉の不活性萎縮も、引き篭もりも、うつ病も、自殺
 も、ある意味で生命体に見放された人体に起こる廃用の一環とすれば、筋肉を鍛える事によって、そう云った状況を回避す
 る事は我々に出来る唯一の手段である。

  人体は、様々な筋肉によって形成されているが、自分の意思によって自在に動かす事の出来る筋肉は主要な骨を動かす随
 意筋だけであり、筋肉トレーニングとはこの筋肉を鍛える事を目的としたものである。この筋肉を鍛える事によって筋力が
 高まり、それに応じて代謝が正常に働き、免疫や治癒力と云った人体の防衛機能が正しく作動し、結果として体力と気力を
 手中にして病気の予防にも役立つのである。脳で考える人間である前に、筋力を発揮する哺乳類である事が、ひ弱な現代人
 に与えられた生命体の啓示なのである。


・・「筋肉レバレッジ・トレーニング」・・


  筋肉レバレッジ・トレーニングとは、梃子の原理によって筋肉を鍛えるもので、現在行なわれている筋肉トレーニング
 とは、グローバルな意味に於いて全く一線を画したもので、いわば人類史上初めて登場した画期的な夢のトレーニングで
 あり、このトレーニングは、幹線筋肉を強化して生活の質を向上させる事によって老後に希望を与え、スポーツ界に新風
 を起こし、医学に風穴を開ける可能性を秘めたものである。

  現在、マシーンやダンベルなどの器具を使うものから、腕立て伏せなどに至るまで様々な筋肉トレーニングが考案され
 ており、中には腕の付け根を縛って血流を遮る事によって筋肉トレーニングの効率を図る加圧式などもあるが、何れのト
 レーニングにも決定的な欠点が潜んでおり、その欠点をクリアーしない限り本当の意味の筋肉トレーニングは出来ない。
 その欠点とは、それらの筋肉トレーニングによって筋肉肥大を図り続ける限り、その先には筋肉の故障と云う現実が待ち
 構えている点であり、負荷を掛け続けられる筋肉は何時の日か必ず臨界点に達し、それを境として破壊への方向へと進ん
 で行くのである。スポーツに於ける選手寿命は、年齢的な限界によって訪れるのではなく、これ以上筋肉を鍛える事が出
 来ない事情によって決定されるのである。

  多くの筋肉トレーニングは、力点と作用点によって筋肉肥大を図る直線的な鍛え方であるが、それが効率の悪い筋肉を
 造り上げる元凶となっている。例えば、ダンベルトレーニングで大胸筋を鍛える場合などは、ダンベルを握る手を力点と
 し大胸筋を意識する事によって、そこに作用点を作り出して筋肥大を図り、上腕二頭筋を鍛える場合は、上腕二頭筋を意
 識して作用点とし、ダンベルを持つ手を力点とするのである。然し、これらのトレーニングで鍛えられた筋肉は押し並べ
 て硬くて融通性の無い筋肉に仕上がってしまい、何れトレーニングと筋肥大の臨界点を迎えるが、その筋肉をスポーツな
 どに使う事によって一層寿命が縮むのである。

  力点と作用点によって行なわれる筋肉トレーニングは、力点に掛かる負荷を徐々に上げ続けていかなければ筋肥大を起
 こす事は出来ないが、筋肉には負荷を掛け続ければ壊れる方向に向かうと云う筋肉負荷の原理があり、何れ筋肉に負荷を
 掛け続ける事の限界を迎えるのである。一般的筋肉トレーニングの行き着く先は、挫折して事なきを得るか、とことんや
 って故障するかの何れかであり、加圧式と呼ばれる方法も単にそれを早めるだけの事に過ぎない。こう云ったトレーニン
 グは、筋肉に鞭を打って鍛え続けるようなもので、それによってスポーツのレベルが飛躍する事も、筋肉トレーニングを
 アンチエージングの武器とする事も叶わないのである。


  
筋肉には、「筋肥大のメカニズム」・「筋肉の連動システム」と云った基本的な仕組みがあるが、一般的筋肉トレーニ
 ングの多くは、それらに対する誤解あるいは無理解によって行なわれており、こう云ったトレーニングと決別しない限り、
 本当の筋肉を造り上げる事は出来ない。筋肉は連動する事によって効力を発揮するメカニズムの中で稼動しており、当然
 トレーニングはそれを視野に於いて行なわれなければならないが、力点と作用点からなる直線的運動によって鍛えられた
 幹線筋肉の未熟な筋肉は、鍛えるほどに使えなくなると云う皮肉な筋肉として肥大してしまう。


  
本来筋肉は、力点と支点と作用点からなる梃子の原理によって鍛えられるべきであり、それによって僅かな負荷を大き
 な負荷として作用点に伝える事が出来、しかもマシーンやバーベルなどの器具による負荷を必要としない為に、病人でも
 年寄りでも簡単に行なえる。更に、このトレーニングは、自分の体を組み合わせる事によって、あらゆる場所に力点と支
 点と作用点を創り出す為に、ベッドの上でも散歩中でもテレビや新聞を観ている時でも行なえ、寿命の尽きるまで一生続
 けられると云う利点がある


  
筋肉レバレッジ・トレーニングと一般的トレーニングの相違は、重たい負荷を使わない為に、誰でも・何処でも・何時
 でも筋肉を鍛えられる点と、一般的筋肉トレーニングに希薄な概念である幹線筋肉の強化を最重要視している点などがあ
 るが、中でも筋肥大が破壊に至らない事に於いて、このトレーニングを一生涯に亘って鍛え続けられる点が、老人やスポ
 ーツ選手に与える恩恵は計り知れないものがある。

 


・・「幹線筋肉」・・


  腕相撲をする場合、指先で感じた相手の力が手掌腱膜を通して、屈筋支帯・伸筋・屈筋・上腕二頭筋・上腕三頭筋・三
 角筋・大胸筋へと伝わり、其々の筋肉が一斉に縮む事によって応戦し、それを僧帽筋や広頚筋が手助けをする。これが腕
 相撲をした時に出来る筋肉の連動であり、その連動によって指先から大胸筋に繋がる一本の筋肉の流れが出来上がるが、
 個々の筋肉が連動し協力し合って作り出させるマッスルパワーの流れる一本の線を幹線筋肉と称する。

  医学書にもスポーツ関係書にも幹線筋肉と云う名称は明らかにされていないが、この幹線筋肉に着目しない事によって、
 様々な筋肉トレーニングの間違いが引き起こされてしまうのである。筋肉トレーニングをする場合、筋肉を肥大させる手
 段としてダンベルやバーベル及びマシーンを用いるのが一般的であるが、こう云った器具を用いた運動では、力点と作用
 点だけの直線的運動によって筋肉が鍛えられる為に、一つ一つの筋肉がパーツ単位で肥大してしまう。これは、筋肉肥大
 のメリハリを競うボディビルダーなどには適しているが、個々の筋肉が自己主張してしまう為に連動による幹線筋肉が不
 完全になりがちで、マッスルパワーを必要とするスポーツには不向きな筋肉である。こう云った筋肉は押し並べて見掛け
 倒しである事が多く、持久力にも乏しいのが普通であると共に、こう云った筋肉を酷使すると怪我に発展するのが自然で
 あり、怪我に泣かされる選手の殆どは間違った筋肉トレーニングに因って筋肉を肥大させた事が原因である。

  一般的にマッスルパワーと肥大した筋肉を同一視する傾向があるが、一つ一つの筋肉が如何に肥大していても、関係す
 る其々の筋肉が連動してより大きな幹線筋肉を造りだせない限り、その筋肉に見合ったパワーを引き出す事は出来ない。
 筋肉運動に於いて幹線筋肉が重要となるのは、スポーツや日常生活に限らず人間の筋肉運動が直線的運動ではなく捻りの
 加わった曲線運動によって成り立っている事に由来し、力点と作用点だけの直線運動によってパーツ単位で肥大させた上
 腕二頭筋や大胸筋は、如何に見かけが立派であっても捻りの加わった筋肉運動には力を発揮出来ない。

  現在行なわれている筋肉トレーニングは、縮むと云う筋肉の特質を衝いたものであるが、その鍛えられた筋肉が捻りの
 加わった運動に使われると云う核心部分には全く言及していない事が、筋肉トレーニングに夜明けが訪れない原因である。
 筋肉トレーニングの殆どは、縮む働きをする筋肉に抵抗を与えることによって成立させており、筋肉をパーツ単位で肥大
 させる事に於いても全く問題を提起する様子は無いが、鍛えるには何の問題も無いとしても、その筋肉を使うには由々し
 き問題が生じるのである。

  人間のしなやかな所作や重たい荷物を持ち運びするパワーは、ただ単に縮むだけの筋肉に捻りと云う動作が加わって初
 めて成立する事実を認識していながら、その事実が筋肉トレーニングに於いて全く考慮されていない現実には、インスト
 ラクターなどに筋肉を幹線筋肉レベルで鍛える知識と技術が無い以前に、その発想さえも無いと云う如何ともし難い事情
 がある。実際問題として格闘技に限らず、およその一流スポーツ選手でボディビルダーのようなメリハリの利いた筋肉を
 身に付けている選手を見受ける事はないが、これはそういった筋肉が殆どのスポーツに不向きであると共に、其々の運動
 に適した幹線筋肉を開発しない限り一流選手には成れない事を物語るものでもある。


・・「寿命と筋肉」・・


  五千年を生きるジャイアント・セコイアの樹から産卵後数時間で死ぬ蜉蝣まで、総ての生命には寿命と呼ばれる地球環
 境での限られた存在期間があり、個々の生命はその限定された時間を消費して死を迎える。人間の寿命は約百二十歳代で
 あると云われるが、それに四十歳前後及ばない平均寿命八十歳代の我々に何が立ちはだかっているのか・・・。個々の生
 命体が持つ寿命が、それぞれの種の存続を意図して設定されている事は想像に難くないが、人間のその寿命を支えるべき
 エネルギーは代謝によって生まれ、その代謝を作り出すのは筋肉であり、その筋肉を十分に支配できない事が約百二十歳
 の寿命に四十歳ばかり届かない原因である。

  人間の死は代謝の終わりと共に訪れるが、その代謝を作り出す筋肉の衰えは即ち代謝の衰えとなって人体に現れ、それ
 がその人間の状態を如実に物語るのである。仮に、人間の筋肉が全く衰えることを知らず、老若男女が寿命を全うするま
 で画一的な筋肉を維持し続ける事が出来るのであれば寿命は限りなく百二十歳に近づき、死は電池切れを髣髴とさせるも
 のとなる。

  我々は何年生きたかと云う寿命よりも、生活の質を維持した年数を重要視するのであり、ヨボヨボ・寝たきり込みの八
 十年の生涯よりも、筋力を維持した七十年の生涯を願うのであり、筋力を維持した九十年の生涯であるならば無条件にそ
 れを望むのが人間の本来である。老人の老人たる所以は筋肉の萎縮であり、これを宿命として甘受するか、改善の余地が
 あると見るかによって我々の老後は激変する。老人・高齢者・年寄り、に共通するのは単に「筋力の低下した人」でしか
 ないのであり、老いて尚、若者と遜色のない筋力を有す老人が当たり前のように存在する社会が来るのであれば、老人は
 社会のお荷物どころか貴重な存在として社会に貢献できるのである。


・・「筋肉トレーニング」・・

  人体には、使わない筋肉は萎縮すると云う「不活性萎縮」の原理があり、その原理を証明するかのように老人の筋肉は
 一様に萎縮するのであるが、この原理の裏を返せば使う筋肉は萎縮しないと云う事でもある。然し、使い続ける限り萎縮
 しないと云う筋肉の性質は、筋力の恩恵によって生活を維持する者にとって何ものにも代えがたい利益であるが、その利
 益の前に立ちはだかるのは、同レベルで使い続ければ磨耗し、加減して使えば加減した分だけ萎縮すると云う筋肉の性質
 である。

  筋肉は鍛えれば鍛えるほど強固になるが、更に鍛え続ければ壊れると云う性質があり、スポーツマンの引退時期はそれ
 によって訪れるのである。鍛え続ける事の限界に至った筋肉は様々な箇所に故障と云う形で現れ、一生懸命筋肉トレーニ
 ングに励む選手ほど故障に泣かされるのはその為である。筋肉トレーニングは、鍛え続ければ壊れ、鍛えなければ萎縮す
 ると云うジレンマの中で行われるが、それを継続させる事は並大抵ではない。然し、それ以上に時間と金銭の消費も相当
 なものがあり、本格的になれば筋肉を肥大させる為にプロテインなどのサプリメントの摂取や食事制限もかなりの負担と
 なる。

  筋肉トレーニングの難しさは、その内容の問題よりも其れを継続出来るかどうかの問題が重要であり、スポーツ選手は
 引退が契機となって本格的トレーニングから退き、一般人は暇と金と根気の何れか一つの切れ目によって遠のくのが普通
 である。この事から導き出されるのは、結局のところ普通の人間が生涯に亘って筋肉トレーニングを続けることは無理で
 あると云う現実であり、それを物語るように普通の老人が日常生活の一環として筋肉トレーニングに励んでいる姿にお目
 にかかる事はない。それによって老人は成るべくしてヨボヨボになり、楽しいはずの老後は病院通いに費やされ、国家は
 その経費削減に躍起となる。

  然し、これらの事は総て筋肉に対する誤解によって生じているものであり、筋肉に対する無理解とそれに纏わる筋肉ト
 レーニング方法の間違いによって引き起こされているのである。筋肉は的確に鍛えるのであれば年齢を問題にする事はな
 く、八十歳になっても筋肉トレーニングは可能であり、それによって筋力を維持する事にも何の問題も生じては来ない。
 筋肉は人体のエンジンであり、その性能が消費期限ギリギリまで維持できるのであれば、人間の寿命に対する考え方にも
 積極性が出る筈である。


・・「重力と筋力」・・

  宇宙区間では秒単位で決められたスケジュールの中で、毎日二時間の筋肉トレーニングをこなしても筋肉の減少を止め
 る事は不可能だったという報告がある。確かに筋肉が宇宙空間に於いて、地球上よりも早い速度で萎縮するのは周知の事
 実であるが、これは宇宙空間と云う重力の存在しない環境の中で、筋肉がその必要性を改める事が原因である。然し、そ
 れは無重力状態の宇宙空間の中でより顕著に現れるだけの事であり、常に一Gの重力に支配されている環境の地球上に於
 いても同様の事態は起こっているのである。筋肉の基本原理となっている不活性萎縮とは、「使わない筋肉は萎縮する」
 という原理であるが、正しくは「圧力の掛からない筋肉は萎縮する」と定義すべきである。無重力空間での筋肉萎縮は圧
 力から解放される事が原因であり、筋肉に圧力を掛け続ける事が出来るのであれば、それが宇宙空間であっても筋肉の萎
 縮を避ける事は当然可能である。

  人体の構造に於いて特筆すべきは、地球上を支配する重力を逃す仕組みをもっていると云う事であり、この仕組みを手
 に入れた事によって人類の二足歩行は可能になったのである。千四百グラムにも上る脳と其れを取り巻く器官、そしてそ
 れを護る頭蓋骨、重量しめて四キログラムを細い頚椎と僅かな筋肉で支える事が出来るのも、重力を逃す仕組みがあれば
 こそ、その仕組み無くして支え続けられるものではない。然し、人体は骨格構造によって重力を逃す一方で、挙動によっ
 ても重力を逃す仕組みを作っており、「直立不動」の姿勢が重力も諸に受けるのに対して、「休め」の姿勢が重力を逃す
 挙動である。

  重力を逃す構造が骨格の領域に対して、挙動によって重力を逃すのは筋肉の領域であるが、いずれの場合も、先ず重力
 を受けて後に逃すと云う経過を辿らなければ、その仕組みによって形成された形状を維持する事は出来ない。いわば人体
 の構成は先ず重力ありきで、その重力を如何に利用し、かつ、逃すかと云う事が筋肉に於ける最大のテーマであるが、こ
 れらの事は筋肉トレーニングに於いても非常に大きな意味を持って居り、この仕組みを理解しない限り一生涯に亘る筋肉
 トレーニングを実施する事は出来ない。

  一般に行われている筋肉トレーニングとは、負荷に対する抵抗によって筋肥大を促すものが殆どであるが、この場合の
 負荷とは飽くまでも重力に沿ったものなのである。重力を負荷としないマシーンも研究されているが、人体が重力を受け
 ながら逃すという根本的なシステムを内蔵している限り、如何なる負荷を作り出す仕組みを持ったマシーンであっても結
 局のところ大した違いを生じさせることは出来ない。

  筋肉トレーニングに於いて様々な発想と見解によって、マシーンやトレーニング方法が考案されているが、これらの総
 ては筋肉が受ける負荷を前提にしているもので、その負荷を逃すと云うもう一方の仕組みについて全く関知してはいない。
 負荷は筋肉にとって栄養と同じであり、どんな負荷であっても掛けた負荷に相応して筋線維は肥大するが、その肥大した
 筋繊維を維持する事の難しさは、負荷を受ける事と逃すことの狭間に生じてくる。負荷を受ける事によって肥大する筋線
 維は、許容量を超えれば破壊によってそれから逃れ、トレーニングの中止と共に負荷を逃す作用によって萎縮が始まるの
 である。仕事の合間を縫ってトレーニングジムに通い、首尾よく筋肉隆々の肉体を手にしても、度を超えれば故障し、其
 れを止めてしまえば何ヶ月も経たない内に、遅筋は萎縮し速筋は僅かな筋肉を残して脂肪に取り換わるのである。

  老衰状態の爺ちゃんの筋肉が隆々としている事は有り得ないし、筋肉トレーニングを止めても尚、当時の筋肉を維持し
 ている人もいない。頑張らないと筋肉は付かないし、頑張りすぎれば故障すると、これは誰もが認める筋肉の実態である
 が、これは筋肉の持つ基本的特徴に過ぎず、筋肉の肥大と萎縮を担っているのは飽くまでも負荷の掛け方なのである。筋
 肉に掛かる負荷は大きいほど筋肥大を起こすと考えられているが、そこに筋肉トレーニングの最大の危険性が潜んでいる
 のである。
 
  宇宙に存在する総ての固体には重力があり、その重力は常に重心に向かって働いているが、人体は地球の核に向かう重
 力を逃しながらも、その重力を利用する事によって、人体が持つ独自の重心と重力をより強固なものにしているのである。
 その事によって筋肉は、地球の重力に対応する役割を持つ筋肉と、体内を重心とする重力に対応する筋肉の二つの役割を
 担うのであるが、地球の重力に対応する筋肉は飽くまでも骨格がバランスを得る事を主としたものであり、この筋肉は正
 しい姿勢を保つ事さえ心がけていれば、殊更筋肉トレーニングなどする必要も無い。

  筋肉トレーニングを行う上で忘れてならない事は、人体に重心を持つもう一つの重力に対応する筋肉の存在であり、そ
 のもう一つの重力を無視して筋肉トレーニングを行う事が、折角造り上げた筋肉を不活性萎縮の犠牲にさせる要因なので
 ある。総ての物質には重力があり、人間もまた地球の重力に支えられながらも独自の重力を有し、人体を覆う筋肉はその
 星の大気圏の役割を成しおり、それによって体内は独自の重力を働かせて体内を護っているのである。卵の殻がその役割
 を果たせなくなったとき、中の卵黄は地球の重力の影響によって、その形状を護ることが出来ないように、筋肉が萎縮し
 て大気圏の役割が脆弱になった時から、人体は徐々に地球の重力の影響に蝕まれていく事になる。

  人体にとって本当に必要な筋肉は、腕立て伏せやダンベル・バーベル及びマシーントレーニングと云った、第三者的な
 力を負荷にしたトレーニングによって育てるのではなく、自分の筋力を組み合わせる事によって本来自分の中にあるべき
 重力の核に対して負荷を作り出し、その負荷によって筋肉を肥大させるのである。それによって肥大した筋肉はマシーン
 やダンベル等で肥大した筋肉と違い、日常生活で使う筋肉であり、易々と不活性萎縮の対象になる事は無い。しかも非常
 に小さな負荷で、器具を使うことも場所を選ぶことも無く、効率よく究極の筋肉を作り出す事が出来る。


・・「遅筋と速筋」・・


  骨を動かす骨格筋線維は神経を通して収縮運動をしており、発揮される筋力、収縮する速度、収縮の持続力によって遅
 筋、速筋、中間筋線維の三つのタイプに分類される。白筋線維からなる速筋は、発揮する筋力が大きく速く収縮するが、
 疲労しやすく持続力が無いと云う特徴があり、陸上の百メートル走、野球やテニスのスイング、バレーボールやバスケッ
 トのジャンプなど持久力を必要としないバージョンに向いている。ボディビルダーなどマッチョマンと呼ばれる筋肉隆々
 タイプは、この筋肉をパーツ単位に鍛えて肥大させたものであるが、持久力がない事と個々の筋肉が連動しないことに於
 いて、見た目の逞しさとは裏腹に実用性に乏しいと云う欠点を持つ。この筋線維の収縮エネルギーは主としてアデノシン
 三リン酸やグリコーゲンの分解によって得られ、無酸素機構と呼ばれる。

  遅筋と呼ばれる赤筋線維は発揮する筋力が小さく、収縮速度が遅いが持久力に優れており、マラソン選手などには不可
 欠の筋線維であり、筋収縮エネルギーは直接的にはアデノシン三リン酸であるが、酸素を補給しながら運動を持続させる
 有酸素機構である。この筋線維は職人などの継続的作業には欠かせないもので、職人技と呼ばれるものは凡そこの筋肉に
 よって支えられているが、素人が一朝一夕に付けられるようなものではなく、その職業に応じた弛まぬ持続力によって培
 われるものである。一方、遅筋と速筋の両方の性質を持ち合わせている中間筋線維は、筋収縮速度も速く、速筋よりも持
 久力にも優れているが、筋線維の特徴と筋収縮エネルギー機構により速筋タイプに分類され、スピードスケートや水泳の
 短距離や四百メートルくらいまでのランニング競技に向いている。

  古来より農耕民族として生活し、春夏秋冬の季節ごとに決められた職務を規則正しく遂行しなければならない農作業の
 性質上、速筋の持つ瞬発力よりも遅筋の持つ持続力によって生活を支えてきた歴史を持つ日本人は、遺伝的に遅筋の発達
 をみるのが一般的である。本来、日本人は速筋と呼ばれる白筋線維の発達による瞬発力やウエート・パワーによって生活
 を支えてきた開拓民や狩猟民族のような筋肉隆々型の容姿とは異なり、一見華奢ではあってもマラソン選手のような粘り
 強い筋力を備えているはずであるが、何代にも亘る農耕とは無縁の生活は遺伝の力を希薄にしてしまい、速筋は元より遅
 筋さえも育っていない非力な若者の老後の悲惨さは察して余りある。

  筋肉の構成は基本的に遺伝がベースになっており、それによって速筋が発達し易い人や遅筋の発達し易い人に自ずと別
 れている。しかし、人体に様々な遺伝の関与がある中でも、筋肉への遺伝的関与は常に暫定的なものであり、それを軽減
 する事や変更する事はさほど難しい事ではない。農耕民族の末裔であっても開拓民や狩猟民族と同じように速筋線維を意
 図的に鍛えれば当然、そのような筋肉と骨格になっていくのであり、それはボディビルダーの容姿が国民性を表さないの
 と同じである。

  身体には、古い細胞が新しい細胞に交代する、「ターンオーバー」と云う新陳代謝の原理があって、筋肉に限らず内臓
 や血管から血液や骨に至るまで、常に古い細胞が壊れて新しい細胞に生まれ変わっており、それぞれの筋肉に継続的に相
 応の負荷を掛け続けることによって、遺伝とは関係なく希望通りの筋肉を創り出すことが出来る。典型的な日本人体型の
 者でも身長はともかく肉体を意図的に西洋人体型に変更する事は可能なのであり、その筋肉が生み出す筋力も亦西洋人の
 の持つ筋力と何等変わりは無い。

  速筋と遅筋は、その性質上発揮する筋力も用途も様々であり、トータル的に見てそれに優劣を付ける事は出来ないが、
 不活性萎縮の観点から見ればその格差は歴然である。速筋が不活性の対象となった場合、その筋線維は脂肪に変換されて
 肉体に止まるので、筋肉ほどでは無いにしても骨格を支えることに於いて大した支障は無く、筋力的にもあまり不自由を
 感じないが、遅筋の場合は脂肪に替わる間も無く萎縮してしまうので筋力的には相当な衰えを感じてしまう。


・・「日常生活と筋力」・・


  筋肉トレーニングで真っ先に思い浮かぶのはダンベルやバーベルを使った運動やマシーンによる運動であり、手ごろな
 ところでは腕立て伏せなどがあるが、こう云った運動によって鍛えられる筋肉は直線的筋肉であり、およそ日常生活で使
 うものとは異なる。人体は二百六の骨とそれを動かす五百とも六百とも数えられる筋肉によって形成されているが、どの
 筋肉一つとっても単一で動いているものはなく、常に幾つかの筋肉が連動する事によって稼動しているのであり、単一の
 筋肉を意識してパーツ単位で鍛えるような筋トレで培われた筋肉は、見た目には立派であっても日常生活の動作では使わ
 ない状態で肥大しており、そのトレーニングから遠ざかれば、その筋肉が維持される事は無い。

  相撲・柔道・空手・ボクシング・卓球・テニスなど、およそスポーツと呼ばれるものは筋肉のひねりと連動によって成
 立しており、直線的筋肉運動によってパーツ単位で肥大させたものはスポーツには向かないが、これは日常生活に於いて
 も同様である、日常生活で使う筋力を如何にアップするかと云う事が、一般人が行う筋肉トレーニングの最大のテーマで
 あるが、実は其れが一番難しいところであり、スポーツ選手のように特定の筋肉を目的に応じて重点的に肥大させる方が
 遥かに簡単な事である。

  仕事や趣味で特定の筋肉を超負荷の状態で長時間使用する場合を除いて、日常生活で使う筋肉が肥大する事は殆ど無い
 が、これは幾つかの筋肉が効率よく連動することによって負荷を分散させると云う人体の仕組みによるもので、ツルハシ
 やスコップを使う肉体労働者も達人ほど筋肉隆々にはならず、その分疲れも少ない。肉体労働者をイメージする場合筋肉
 隆々の容姿を想像する事が多いが、生活の一環として長年そう云った仕事に従事している人の筋肉は、想像に反して無駄
 な筋肉は殆ど無く必要な筋肉が必要な場所についているだけで、むしろ華奢な印象さえ受ける。これは農作業に長年従事
 している人も同じであり、筋肉隆々の肉体労働者が居るとすれば、それは食べ過ぎによって摂取カロリーが消費カロリー
 を上回っている事と、効率の悪い無駄な動作によって余分な負担を筋肉に掛けている事が原因であり、こう云った人は体
 がガタガタになるのも早く定年までその仕事に従事するのは殆ど無理。

  日常生活に使う筋肉を鍛える上で留意しなければならない事は、飽くまでも日常生活の運動に使われる範囲で筋肉を鍛
 えるべきであり、腕立て伏せやバーベルやダンベルを上げ下げするような運動やマシーンを使ったトレーニングでは到底
 日常生活で使われないような筋肉を肥大させない事である。蓄えられた筋力の維持は日常的にその筋肉を使う事が前提で
 あり、日常的に使われない筋肉を肥大させる事は簡単でも、その筋肉を維持する事は容易ではなく、生涯に亘ってそれを
 維持する事は不可能に近い。

  一見して筋肉の運動稼動域は広くその動きは複雑であると見られやすいが、これは飽くまでも筋肉間の連動によっても
 たらされたのであり、個々の筋肉はただ単に「縮む」と云う仕組み以外は持ち合わせていない。人体は骨と関節と筋肉の
 の関係によって成り立つが、それぞれの各部分は、非常に単純な動きをしているだけであり、「単調な骨格」「連動する
 筋肉」「応用する脳」、この三大要素によって我々の日常生活は支えられているのである。骸骨踊りを想像すれば分かる
 ように本来単調な動きしかしない骨格は、それを支える筋肉が連動し、更に脳が一つ一つの動きを応用する事によって複
 雑な動きを表現しているのである。手先の器用な人と不器用な人は、筋肉の違いと考えられ易いが、実際はその人の脳の
 応用力の違いであり、筋肉により器用な働きを求めるのならば、筋肉の動きを訓練するよりもその動作に対するよりもそ
 の動作に対する脳の応用力の訓練から入った方が望ましい。

  日常生活に於いて最も重要な筋力は、「脚力」と「握力」と「腹筋力」であり、この三つの筋力が備わっていれば日常
 生活は磐石である。この三つの筋力は人体に於ける総ての筋力を統合していると云っても過言ではなく、これらの筋力の
 弱体化は即ち人体の弱体化そのもので、脚力と握力の弱体化は自活への最大の妨げとなり、殊に人体の要である腹筋力の
 弱体化は、腰痛の原因となって背骨の歪みを促進するだけに止まらず、脚力や握力へと波及して人体のあらゆるバランス
 を損なう。


・・「脚力」・・

  脚力は、その人間の生活の状況に相応しく備わるものであり、険しい山間部を上り下りする生活を日常とする人間には、
 当然の如くそれに相応しい脚力が備わり、平地を生活の拠点とする者には、それに適した脚力が備わるのでり、その日常
 生活条件を満たさない者が、トレーニングによって脚力だけそれに適応する仕様に改良するのは全く意味を持たない。平
 地での生活に適した脚力を持つ人間が、筋肉トレーニングに依って山間部を上り下りに適した脚力に改造したところで、
 平地での生活の中でその脚力を維持する事は出来ないし、その脚力が平地での生活に役立つ事もない。

  その殆どを脚力に依存するスポーツの代表は競輪であり、競輪選手の脚力は当然ながら大腿四頭筋から外側広筋や内側
 広筋、ヒラメ筋や前ケイ骨筋から長ヒ骨筋や長指伸筋まで、その肥大の仕方は芸術品と云ってもよい程の見事さであるが、
 如何せん平地での二足歩行には適さない。競輪選手にとって、その総ては競技での勝利であり、現役選手は万難を排して
 脚力トレーニングに励む事によって、筋力の維持と向上に勤める事が出来るが、引退して相応の期間が過ぎれば、その生
 活環境に相応しい脚力に生まれ変わるのである。

  脚力は歩いたり走ったりする事によって鍛えられると云う誤解が少なからずあるが、ウォーキングやジョギングによっ
 て脚力が鍛えられると云う事は本来無い。日常生活に於いて歩く事が少なくなった人間は当然の如く、それに相応しい脚
 力になっていくのであり、その状態が長期化すれば歩行に適した脚力は萎縮していくが、活発に歩行を開始した場合、萎
 縮した筋力にとっては歩行自体が負荷となって脚力は復活する。然し、脚力とは正常範囲に復活した脚力が、歩行する事
 によってそれ以上に鍛えられるという性質のものではなく、一般の人間が脚力を鍛えるべくそれ以上に懸命にウォーキン
 グやジョギングに励めば、次に訪れるのは磨耗による関節や筋肉の故障である。

  脚力をただ単に歩く力と解釈するのであれば、通常の場合鍛える云々の問題ではなく、歩く事が減った人は通常の範囲
 で歩く事を習慣にし、通常の範囲を超えて歩き続けている人は筋肉を休ませる習慣を身に付けるだけで事は足りるのであ
 る。我々の二足歩行に於いて骨格と筋肉の重要性を如何に力説しても、それらは飽くまでも基本的要素に過ぎず、その歩
 行運動を支えているのはバランスと惰力であり、骨格と筋肉が相応に備わっていてもバランスと惰力を欠いた状態ではス
 ムーズな歩行は行えない。平衡感覚を司る内耳に障害が起こればスムーズに歩くことが困難になるし、長期間臥せってい
 た病み上がりの人が急に歩けないのは、筋肉の衰えよりも平衡感覚の衰えであり、平衡感覚が戻ってくれば普通に歩ける
 ようになる。

  然し、脳卒中の後遺症や関節部の損傷による歩行困難を、歩行によって改善しようとする行為は全く無駄や危険な事で
 慎まなければならない。脳卒中の後遺症である半身筋肉の萎縮によってバランスと惰力を欠いた状態で脚力を得ようと
 しても、それは決して得られるものではない。骨や骨の関節部や筋肉の損傷及び、その後遺症は先ず歩く以外の方法を用
 いて、正しく歩ける状態に筋肉を矯正した上で歩くべきであり、殊に高齢者のように筋力の衰えた状態でウォーキングな
 どを始めた場合、脚力が戻る前に骨や関節に負担がダイレクトに掛かって故障をするのである。

  理想的な脚力トレーニングは、仰向けに寝て片方の足を浮かして親指同士を重ねて、浮かした方の足を引いて親指をこ
 すり合わせる方法を左右相互に回数を増やしていく。これは寝る前や起きる前に布団の上でやる事で相当な効果がある。


・・「握力」・・

  握力は、人間にとって不可欠の力ではあるが、通常の社会生活の中で必要以上にそれを求められる事もなく、スポーツ
 に於いても重要な力でありながら潜在的な力と云う思い込みが強く、その力に対する関心を持たれる事も、積極的にそれ
 を高めるトレーニングが行われる事も、他の筋肉トレーニングに比較して極端に少ない。然し、握力は実質的な筋肉運動
 を優位にするだけに止まらず高齢者の場合などは精神面に作用する働きも強く、極端な握力の衰えは消極的思考や否定的
 な発想の元にもなり易いが、これは握力が他の筋肉と違い遺伝子の中に組み込まれた人類としての本能的な力である事に
 由来する。

  人間は、握力に依存して生活をする習慣から遠ざかって久しく、握力の低下も相当なものがあるが、日常生活を樹の上
 で暮らすオランウータンや生活に必要な総てのものを握力に頼って処理するゴリラなどの霊長類は四百ー五百の握力を有
 するのも珍しくはなく、これらにとって握力の衰えは即生活レベルに及ぶ重大事なのである。然し、如何に器物が現代人
 の握力を補うとは云え、嘗て他の霊長類と同様に生活手段の多くは握力に依存した記憶は人間の脳に残されており、握力
 の低下がもたらす心身への影響は計り知れない。

  効果的なトレーニングにはロッククライミングなどがあるが場所を選ぶ欠点があり、壁の桟など手近な出っ張りに指を
 引っ掛けて懸垂をするのも効果があるが、これは握力が付く前に故障の危険がある。左右の指を交差して互いに負荷を掛
 け合うのが、簡単でありながら即効性と場所を必要としない理想的なトレーニングであり、この方法を越える有効且つ手
 軽な握力トレーニングは存在しない。握力トレーニングの代表は、バネを利用したグリップハンドであるが、その器具の
 仕組みと握力の育成される関係に於いて、「遣らないよりは良い」程度のものでしかなく、テニスの軟式ボールを握った
 り、拳を握ったり開いたりする運動を繰り返すのも同様で、このようなトレーニングで握力の向上を目指すのは全くのナ
 ンセンス以外の何ものでもない。


・・「腹筋力」・・


  腹筋力は、人体に於ける根幹的なもので、総ての筋肉の要である事は云うに及ばず、骨格の歪みに関わるなど、これが
 衰える事によって人体には様々な不都合が引き起こされるが、中でも腰の痛みに関わる大部分はこれであり、農作業など
 前屈姿勢での作業は腹筋力なくして出来るものではない。一見して前屈姿勢と腹筋の間に相互作用は見受けられないが、
 腰椎は腹筋力に支えられることによって自然に前屈姿勢をとれるのであり、腹筋が衰えた状態で農作業などをすれば腰椎
 に直接負担が掛かってしまい腰痛は必至である。

  二足歩行をする肉体にとって背骨と呼ばれる数々の脊柱は最も重要な部分であると共に、人間の生命線である脊髄を護
 る絶対不可欠の存在であるが、人体を形成する総ての骨がそうであるように脊柱もその例外ではなく、其々の筋肉の働き
 を無くして動く事も支えることも出来ないのである。中でも腹筋は内臓を護って筋肉連動の中核となるだけでなく、人間
 の生活運動の要である前倒姿勢と前屈姿勢を支えるメインの筋肉であり、この筋肉が衰える事は即ち人間としての健全な
 容姿と運動を保てないと云う事なのである。

  我々は二足歩行が人間の原点であると考えられるが、人類の種にとってそれは単に生き抜く手段に過ぎない。人類の総
 ては脳と脊髄に凝縮され、脊柱はその脳と脳髄を繋ぐ幹線道路であるが、骨格としては非常に脆弱で、その支えは圧倒的
 に腹筋に依存されており、腹筋が柱とは名ばかりの脊柱を支える堅固な壁の役割を果たさなくなったとき、人体と云う構
 造建築物は崩壊の一途を辿り始めるのである。

  然し、腹筋の重要性は誰もが認めながらも、それを鍛えるトレーニングは総じて強引であり、それによって腰痛を招く
 事も少なくないが、本来、普通の日常生活の範囲であれば、スポーツ選手でもない限り一般人が腹筋を鍛える必要は全く
 無く、正しい姿勢と下腹を常に意識して腹筋の緊張を保っていれば腹筋が衰えて生活に支障が出るような事態は起こらな
 い。加齢による腹筋の衰えは偏に姿勢の悪さであり、人体の重力を逃す仕組みに依存しすぎる事によって腹筋が本来の形
 状を保てなくなる事がその原因である。腹筋は人体の矯正機能を司っており、その腹筋を正常に保っている限り骨格の歪
 みやそれに纏わる支障は起こらないのが普通である。

  腹筋は直立時には極力緊張させておくべきであるが、他の姿勢の時でも意識的に緊張状態にしておく事が望ましく、そ
 の緊張によって正常な容姿は保たれるのである。緩んだ状態が日常化しだすと内臓や皮下に脂肪が蓄積し中年太りの容姿
 になるのであり、既に中年太りの体型で、其れをスリムに矯正したいのであれば、先ず根気良く下腹を引っ込める練習か
 から始め、其れを習慣的にして容易に引っ込める事が出来だしたら、腹を引っ込めた状態で笑うのである。笑いすぎて腹
 筋が痛くなった経験は誰にでも一度はあると思うが、この場合本当に笑う必要は無く、息を吐き出して下腹を思いっ切り
 凹ませた状態で、更に残った息を小刻みに吐き出しながら腹筋を揺さぶるのである。腹筋は息を吸い込むときに緩み、吐
 き出すときに緊張する仕組みになっているので、それを利用して腹筋を鍛えるのが理想的である。因みに咳のし過ぎや笑
 笑いすぎて腹が痛いのは、緊張した腹筋に息を吐き出す事によって追い討ちを掛けるからで、シャックリを何度しても痛
 くならないのはシャックリが息を吐く行為によって起こっているからである。


・・「筋肉と脳」・・


  動物の中で筋肉トレーニングと称して筋肉の肥大を目論むのは人間だけであり、普通の人間の十倍前後の握力を誇るオ
 ランウータンでさえ握力の筋肉トレーニングをする事も無ければ、比類の腕力を誇るマウンテンゴリラが腕立て伏せによ
 って筋力アップを図る事も、哺乳類最速のチーターが脚力を鍛える事も無い。総ては遺伝による筋肉形成のたまものであ
 るが、これは亦筋肉を形成するのが脳である事の証明でもある。

  総ての筋肉トレーニングは、筋肉線維は負荷運動によって肥大すると云う事実に則って行われ、如何に筋肉に合理的な
 負荷を掛けて筋力を高めるかが筋肉トレーニングのテーマであるが、現実には筋肉に対する負荷の問題よりも、負荷に対
 する脳の認識の問題の方がより重大である。脳は人体の中で唯一意識を持った臓器であり、その意識は人体の随所に働き
 かけられているが、総ての意識は脳の嗜好を優先する事を前提として仕組まれており、筋肉トレーニングに伴う「苦痛」
 「我慢」と云った事態は脳にとって最も嫌悪するところで、こう云った負荷を肉体に掛け続ければ、脳はその負荷に対す
 る苦痛から逃れようとして故障や挫折の方向に動き出してしまう。そう云った意味に於いて、楽しく心地良いと云う認識
 を如何にして脳に持たせるかと云う事が筋肉トレーニングには優先されるのである。

  本来、人体に於ける筋力のアップは人体を支配する脳にとって大きな利益であり、それを目的とした筋肉トレーニング
 は歓迎すべき事ではあるが、如何せん目先の状況に左右され易い脳にとっては、筋肉トレーニングによって得られる筋力
 よりも、それによって被る苦痛や我慢の回避を優先させるのである。苦痛は嫌い、快楽は好きと云う脳の本質的な意識を
 如何に諌めて改善し、筋力アップと云う人体の最大利益を得るかが筋肉トレーニングに於ける本当のテーマなのである。

  人体に於ける総ての退化と進化は脳に委ねられており、脳が率先して進化に関与していくのであれば、意図的に一定の
 箇所を進化させる事は難しい事ではなく、筋肉の進化もその例外ではない。結局のところ筋肉トレーニングとは云いなが
 ら、如何にして脳を騙し、思い込ませて筋肥大を起こさせるかと云う事であるが、脳は非常に自分本位の臓器であると共
 に相当な気紛れであり、メンタル面の教育を抜きにして筋肉トレーニングを語るわけにはいかない。筋肉トレーニングは、
 その方法や手段よりも寧ろ、それに取り組む姿勢と継続させる意識を如何にして脳に植え付ける事が出来るかに掛かって
 いるのである。

  脳にとって最大の敵である苦痛を与えず、飽きっぽいと云う性質を継続に向かわせる事が出来れば筋肉トレーニングは
 半ば成功したのも同然であり、それを好ましいと脳が感知すれば率先してそれに取り組み、延々とそれを継続させるので
 ある。脳が納得し、喜んで取り組み、率先して継続するように仕向ける為には、そのトレーニングに掛かる筋肉への負荷
 が軽微で尚且つ際立った成果を現す事が重要である。

  我々は筋肉の肥大に於いて、如何にして大きな負荷を筋肉に掛けるかを問題にするが、脳と筋肉の関係に於いて筋肥大
 を求めるのであれば、筋線維を肥大させる為にその筋肉に過剰な負荷を掛ける必要は何処にも無い。軽微な負荷であって
 も脳が其れを過剰な負荷と認識すれば、その筋肉は肥大を起こすのであり、「重負荷による筋線維の断裂と超回復が筋肥
 大のメカニズム」であると考えるのは、脳と筋肉の関係に於いて全く理不尽な見解である。

  脳と筋肉の関係に於いて最も重大なことは、「結果的」に重たいものを持つ事によって筋肉が肥大するのであって、重
 たいものを持つから筋肉が肥大するわけではないと云う仕組みの存在である。筋肉に負荷が掛かった場合、一過性であれ
 ば筋肉痛や故障によってその負荷は消費されて筋肥大を起こす事はないが、その負荷が継続的に掛かった場合、脳はその
 箇所の筋肉を増強させることによって強度を増す体制に入る。その場合に脳は実際に筋肉に働いた負荷の重量ではなく、
 飽くまでも脳が感知した負荷の重量に見合った補強をするのであり、其れが実際には軽微な負荷であっても脳がそれを大
 きな負荷と認知すれば、その箇所は実際の負荷が掛かったと同じように肥大するのである。

  筋肥大は脳が重たいものを継続的に持ったと認識する事を前提にして起こるのであり、如何にして重たいものを持って
 いると脳に認識させるかが、本来の筋肉トレーニングのポイントである。然し、十キロの石を脳が五十キロの重量と認識
 すれば五十キロの負荷運動に相当する筋肥大が起こるのが脳と筋肉の仕組みであるが、一方で脳には慣れると云う基本的
 な性質があり、五十キロの負荷にも慣れてしまえば更なる負荷を必要としなければ筋肥大は起こらない。軽微な負荷を大
 きな負荷と脳に認識させて、その負荷を掛け続けるかが鍵となる。


・・「成長ホルモンと筋肉」・・

  脳と筋肉の関係を取り持つのは成長ホルモンであり、詰まるところ筋肉トレーニングとは筋肥大の媒体となる成長ホル
 モンを如何にして誘導するかと云う処であり、汗水たらして重たいものを持たなくても、脳に重たいものを持ったと認識
 させることさえ出来れば筋肉トレーニングは成立するのである。一キロの鉄を十キロの重さであると脳に認知させて、毎
 日百回上げ下ろしして肥大した筋肉と、実際に十キロの鉄を毎日百回上げ下ろしして肥大した筋肉の力は同じであるが、
 現実には右手に左手を被せただけの負荷であっても筋肥大は起こり、それによって造られた筋肉の力も実際の鉄の塊を上
 げ下ろしして出来た筋肥大と全く同じものなのである。

  一般的に筋肉トレーニングに励む人達は、目的を持って種目に応じた筋肉を鍛えるスポーツ選手と違い、多くの場合速
 筋を手っ取り早く鍛えたがる傾向がある。速筋は無酸素機構と呼ばれ、グリコーゲンなどを分解して収縮エネルギーとす
 る白筋線維は瞬間的に強い力を発揮する筋線維であり、腕力とはこの筋肉の代名詞であるが、筋肉トレーニングに於いて
 常に物議を醸し出すのはこの筋肉の育成方法である。この筋線維を肥大させるためには、七割から八割以上の重い負荷を
 掛ける必要があると云うのが一般論であり、その為にはより大きな負荷を如何にして継続的に筋線維に掛けることが出来
 るかがポイントとなっている。確かに、それによって筋線維が肥大する事は疑う余地も無いが、それが総てであるという
 錯覚を未だに拭い去れない事が怪我の誘発や効率の悪い筋肉トレーニングに終始する要因となっている。

  成長ホルモンと筋肉の関係に於いて重要な事は、脳が認知したどの時点の負荷に対して成長ホルモンが誘導されるのか
 と云うところである。ホルモンは「刺激」と云う言葉に要約できるが、脳が筋肉トレーニングによる負荷に対して刺激を
 受けるのは掛かった負荷が解放される瞬間であり、解放される瞬間にマックスの負荷が掛かったと脳に認知するように仕
 向けておけば、脳はその認知した時点の負荷に相応しい量の成長ホルモンを下垂体から送り出して来るのである。筋肉の
 肥大が掛かった負荷を解放することによって起こるのであれば、八割以上もの重い負荷を掛ける事に意味は無い。筋肉ト
 レーニングに於いて負荷を掛ける意味合いは、脳にその重量を認知させて成長ホルモンを促す事にあるのであれば、掛け
 る負荷に対する固定観念も大きく揺らぎ、端的に言えば人間の筋肉はマシーンやダンベルと云った器具での負荷を全く掛
 けることも無く、筋線維の肥大を起こす事が出来ると云う事なのである。

  筋肉トレーニングとは如何に重たいものを持つかではなく、如何に脳に負荷が掛かっている事を認識させるかと云うこ
 とであり、脳が負荷を認識すれば、必ずその負荷に見合った成長ホルモンが筋肉に導入されて筋肥大が起こるのである。
 人体が秘める偉大な仕組みは随所に隠されているが、筋肉とその肥大の鍵が成長ホルモンと云う刺激である事実は、日常
 生活の支えを筋肉に委ねている人類にとって膨大な利益をもたらすものであり、この説に則って筋肉トレーニングが行わ
 れるのであれば、スーパーマンのような老人も当たり前に存在する事になる。


・・「筋肉とダイエット」・・

  人体に於いては、「体は銀行、脂肪は貯金」であり、見た目の悪さや動きにくさを問題にしなければ、体に脂肪が蓄積
 している状態は決して悪いことではないが、問題は蓄積された脂肪の量と、それが体内に蓄積される原因である。

  体内に脂肪が蓄積される原因は、「需要と供給のバランス」に於いて供給が需要に勝る事にあり、需要に供給が追いつ
 かなければ脂肪が蓄積する事はない。それ故にダイエットのターゲットにされるのは常に供給の側であり、何をどうやっ
 て摂取するかがダイエットの大筋を占めているが、こう云った観点に立ったダイエットは人生に於いて非常に無味なもの
 で、脳にとっても痩せる為に「生きる醍醐味」である食を我慢するのは耐えられない事態であり、必ずリバウンドと云う
 形で脳は自分の要求を突きつけてくる。

  様々な観点から多種多様なダイエット方法が紹介されているが、これらの多くの問題点は、意識の支配する領域である
 食べると云う問題に言及する余りに、肉体の支配にある需要の問題を疎かにしている点である。そもそも人間の多くが至
 る中年太りとは、食べる側の問題によって起こるのではなく、食べる事によって得たエネルギーの消費側の問題が大きく
 関与しており、省エネ年代の中年に差し掛かっても尚、若い頃と替わらない食生活によって余ったカロリーが繰越に因っ
 て体内に蓄積されて起こるのである。

  中年が省エネ型になるのは、過去の長きに亘って食糧危機と向かい合ってきた生命体の知恵ではあろうが、グルメ情報
 真っ盛りの現代社会に於いて病人でもない人間が食に対してストイックに生きるのは、脳の一番の欲求を無視する事であ
 り、これは脳にとってプチ拷問である。中年に差し掛かって消費エネルギーが少なくなるのは、筋肉量の減少による代謝
 力の低下であり、新陳代謝の低下をダイエットのレベルで軽々しく扱う現代社会の傾向には恐れ入るばかりであるが、こ
 れは最早人体の根幹レベルの低下を意味するもので、食事の摂取量を制限して済む問題ではない。

  加齢による生活の質の低下を防ぎ、病気を予防する方法が食事制限によって根本的に解決する事は有得ない。総ては筋
 肉量の低下によって起こる連鎖であり、適正な筋肉量を維持することが新陳代謝を適正にし、それによって病気は予防さ
 れて生活の質が維持され、結果的にダイエットとは関係なく適正な体型を維持できるのである。懸命に食事制限をして理
 想の体型を造り上げても、骨はカスカス、筋肉は萎縮では到底人間力を発揮して人生を謳歌することは叶わない。筋肉が
 骨を造り、その骨が体を支え、その体が生活の質を向上させるシステムは、決してダイエットで創り出す事は出来ない。

 

・・付け加え・・


  文体及び説明に於ける力不足故、理解に於いて意に沿えない部分が多々あるとは想いますが、其処のところは読み手の
 努力を以て補って頂きたい。然しながら、筋肉トレーニングに於いて梃子入れ効果を用いる発想を何故、これまで人類が
 見出して来る事が出来なかったのか不思議でもあるが、この筋肉トレーニングが市民権を得た時に、現在行なわれている
 筋肉トレーニングが否定される事を考えれば、この筋肉トレーニング方法を開発した事は、筋肉トレーニング界のパンド
 ラの箱を開けたのかもしれない。

 







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