仙人への道『仙教・臨蘇派』

     仙法


             『序』


 「道理」


 何もかも。全ては、それから始まった。・・ビッグ・バン・・それは、掌に乗る程の小さな点に始まり、瞬時に宇宙を形成したと聞く。・・2013年のノーベル物理学賞は、「物質の質量の起源に関する理論的発見」に輝いたが、それは自然界を構成する最小単位である素粒子の一つ、ヒッグス素粒子の発見であり、これまで「神の素粒子」と呼ばれ多くの物理学者が存在を示唆しながらも、誰一人として存在を証明できなかった十七種類の最後の未確認素粒子であった。・・それは、百三十八億年前のある日、時間も空間も存在しない漆黒の闇の中でピンポン玉ほどの物質が爆発し、瞬時に宇宙空間を形成したとする説を立証するものであり、その爆発の瞬間に飛散し、高速で自由に宇宙空間を飛び回っていたあらゆる素粒子は、その百億分の一秒後に宇宙空間を埋め尽くしたヒッグス粒子に動きを阻害され、それによって宇宙空間は質量を獲得したとする理論を一層堅固なものにした。・・荒ぶれた宇宙空間で元素と分子が無秩序に衝突を繰り返し、やがて混沌の中で破壊と誕生がパターンを作り、そのエネルギーがフィードバックする事によって進化というプロセスが生まれる。・・フィードバック現象とは、出力値が次の繰り返し計算の入力値になると云う至って単純な法則であり、自然界に於ける全ての原理は拡散の出力値が次の繰り返し計算によって結合する事が繰り返されると云うシンプルな仕組みによって支配されてる。


 総ての銀河系ははビッグバンによる巨大な拡散が原動力となり、その出力値が入力値の元に還る運動が繰り返される事によって形態を保っており、その銀河に属する総ての星も亦、渦巻き銀河の出力値とその繰り返しに押されて回転を続け、静止してポツンと宇宙に浮かんでいる星は何処にも存在しない。・・地球が太陽の周りを軌道とするのも、フィードバック現象の一環であり、その現象は地球環境の至る所で目にする事が出来る。・・海水が渦を巻く現象で知られる鳴門の渦潮は、さながら宇宙に点在する銀河の様と酷似しているし、つむじ風や竜巻や台風が一様に渦を巻くのも、総てはその法則に導かれる事によって起こる。

 春夏秋冬の季節が廻り。朝日が昇り夕日が沈む。こんな当たり前の日常も歴然とした宇宙の道理に沿った運動であり、夜空に雑然と輝く何億・何兆と云う星も亦、宇宙の道理に沿う事で秩序を保つ。・・地球が水色の星と呼ばれる所以は広大な海原と空気にあるが、総ての水分は大気が作り出すカプセルの中に封じ込められており、海水として地表面積の七十三パーセントを覆う水もあれば、水蒸気になって大気中に拡散し雲や霧を生じ、雨や雪となって地上に降り注くものもある。・・あるものは地を這い、あるものは地下に浸透し、あるものは川となって海に帰り、再び太陽に温められて大気中に拡散する。・・これが太陽と水が紡ぐ天地不変の法則であり、当然ながらその形成物質の殆どが水分である人間も、その道理を外れて存在する事は出来ない。・・化学式H2О、この酸素と水素の化合物に過ぎない水が人類の生命の源であり、死んだ後に火葬場で焼かれた遺体の水分も亦、天地不変の法則の道理に導かれて大気中に拡散し、霧や雲となり、再び大地から人体へとフィードバックされる。


 太陽であれ、地球であれ、人間であれ、その存在が宇宙の始まりに本をただすものは、必然的にその道理の中で生きる宿命であり、それから外れて存続出来るものはこの世に存在しない。・・幾多の生物が淘汰された歴史の中で、人類が今日の生活を獲得し存続する背景には、太陽の動きや星座の観測に限りない情熱を注いで来た古代人が、天体の動きと地球の四季の移り変わりの関連から自然の道理を導き出し、その道理によって農耕の基本を導き出した知恵がある。・・然し、人類が種の存続の為に発揮する知能は天地にのみ注がれている分けではない。・・人類が他の仲間の哺乳類と一線を画す所以は意識にある。嘗て、人類の祖先も他の哺乳類と同様に本能に任せて生きていた歴史を持つが、進化する脳を獲得した事を契機にして、肉体本位の生物から意識主導の生物への転換を図ったが、それは同時に人間の道理をより複雑にした事を意味するものでもある。


 人類の本管を為すのは六十兆個の細胞を支配する遺伝子であるが、自分を支配しているのは飽くまでも意識であり、自意識の存在無くして自分の存在は有り得ないが、その意識に優先されるのは人間としての道理であり、如何に自分が大切であるとしても人間としての道理を外して自分を生かす事は出来ない。・・「社会が自分を受け入れてくれない」とか、「社会に馴染めない」と悩む人間は若者に限らないが、それらの人間には、社会の道理を弁えない事と自分の道理を何の変圧も租借もせずに社会に持ち込む過ちがある。・・事象の其々に存在する道理は時計の歯車の様に、同じ方向を向いて同じ動きをしている分けではなく、時に応じ、場所に応じて一見何の脈絡も無く存在しているかに見えるが、時計の歯車の総てが時間を表す為の動きであるように、人間の道理の総ては人間が生きる事の本質を表すものであり、道理を外れる事は即ち人の道を外れる事で、それは自ら渦中に飛び込んで迷うに等しい。



 社会とは人間が人間の都合によって作り出した集合体であり、一見社会と相反すると思える道理や他の道理を駆逐するかに見える道理もあるが、そこには歴然とした法則が存在する。・・社会は自分以外の人間の都合によって構成されるシステムであり、そのシステムの中に自分の都合を持ち込む事は道理に反する事であり、それによって自分の都合を優先する者は阻害され、社会の都合を優先する者は優遇される。・・我々と社会の関係を宇宙に例えて観れば、地球は自分であり、月が子供で、太陽は親にあたり、太陽系は家族と云う事になり、天の川銀河が社会に該当する。それぞれの関係にはそれぞれの道理が存在し、月と地球の間にも地球と太陽の間にも道理がある。それらは時計の歯車の様に一つ一つが無関係の動きをしている様に見えても、時計全体から見れば一つの動きであるように、太陽系が属する天の川銀河から見れば、それぞれの星は宇宙の道理に従って規則正しく運動しており、、それは迷走しているかに見える毛細血管が大動脈や大静脈と確かな関連を持っているのにも似ている。



 知っているようで知らず、解っているようで解っていないのが道理。・・然し、知らなくても解らなくても、取り敢えずは生きていけるのも道理。・・寧ろ、なまじに知ったが故に、迷いや苦悩を生じさせる事の方が多いのも道理。・・が、知らない強さが、知らない悲しさに勝らないのも亦、道理。・・知っていれば笑って済む事も、知らないが故に悔しい思いをして哭くのも道理。・・しかも、それが取り返しの付かない事だとしたら。・・「アッ、道理で。」・・それで、済めば良いが・・。



  自分の意思に関り無くこの世に放置され、その意味も知らずに生きるのが生物の悲しい道理であるとしても、犬や猫の様に本能に任せて生き、その事にさえ気付か無いのであれば何の問題も無いが、脳の紳士皮質を進化させた人間の意識がその疑問を放置する筈も無い。・・生きる以外の選択肢を与えられる事もなく、何の理解もない儘に只管に生きる事に執着した挙句、待っていたのは夢や希望とは無縁の「老」と「病」と「死」と云う無残な結末では救われない。・・その結末に納得出来ない若き釈迦は、全てを捨てその難問の解決に挑んだが、果たして仏教の開祖は何を悟り、何処に行き着いたのか・・悟った筈の釈迦が一言一句、一筆たりとも残していないのは何故なのか。



 若さと健康を、何時までも維持出来ないのは肉体の道理。・・健康を損なう事に、老若男女を問われないのは健康の道理。・・老いて死ぬのは人類の道理。・・その道理を理解出来ない事が、苦悩と迷いを生じさせ続けるのも亦、道理。・・健康で若く、夢と希望に満ちた頃に、老いと病に苦しみながら死に臨む自分を想像する事など出来る筈もないが、気が付けば、「何故、こんな事になってしまったのか」と、虚ろに鏡を覗き込んでいる自分の姿が待っている。



 誰しも一生に一度くらい、知恵熱にうなされたかのように、「自分は何の為にこの世に産まれ・・何を求めて生き、何故死ぬのか・・死後の世界は・・」、「自分は何処から来て・・何処へ行こうとしているのか」、等と取り留めの無い自問に頭を悩ませる時期がある。・・それも一過性の麻疹のようなもので、過ぎてしまえば何事も無かったかのように忘れてしまうが、とっくに忘れてしまった筈のそのテーマは、必ず心身の衰えた頃に蒸し返される事になる。・・今の自分が、その答えを解き明かして置かない限り、手探りで生きるより他に手立てが無いのが人生の道理であり、そうで無ければ、人生の終焉を暗中模索に草臥れ果て進退窮まった自分の中で迎える事になる。




        起ノ段 

           
『死生観』


  「死が産まれる」


 歌の文句に、「何時まで待っても来ぬ人と・・死んだ人とは同じ人・・」という件がある。・・「勘当した息子は死んだも同じ」と強がる父親が居たり、「こんな状態では死んだも同然」と嘆く人も居る。・・切羽詰った苦境から、「自分を救う為に死ぬ」人も居る一方で、「死んだ積もり」で生きる人も居る。・・眠っている様にしか看えないのに、勝手に「脳死」と判定される人も居り、「死んでいる」様に生きて居る人も居る。・・不治の病に困憊の中で「救われる死」も、幸せの絶頂の中で「救われない死」と思われるケースもある。


 家族以外であっても、人が死ぬ事には多少なりとも感情が動くのが人間であり、それが親しい人であったり恩人や情を通わせた人であれば、その悲しみは一層深まる。・・一方で、その穴を埋めるかのように家族に赤ん坊が産まれた時、その喜びは故人を失った悲しみを中和させるには十分過ぎる。・・然し、何故に死ぬ事が辛く悲しく、忌まわしくて不幸で、産まれる事が喜びで幸せなのか。・・人間に死が訪れないとするならば、人間が新しく生まれる意味も進化する余地も無くなるが、それが意味するところは人類の滅亡でしかない。 


 この地球上には様々な生物が生存し、それぞれに適応した方法で種の存続を図っているが、如何にその手段が多種多様であっても、多くの生物が生と死を糾う事に種の存続を依存している事に変わりは無い。・・生物にとつて死ぬ事と生まれる事は一対で、存続も進化も全ては死ぬ事と生まれる事によって獲得したシステムであり、生まれる事を歓迎するのは当然としても、死ぬ事を怖れたり忌まわしく思うのは不思議な現象と言わざるを得ない。・・冬が過ぎ、枯れ草に覆われた野原にも春が訪れ、冬枯れした植物の間から新芽が芽吹くのは、連綿と続く自然界の節理であるが、我々はその様を観て枯れ草を植物の死骸とは考えないし、新芽を誕生と捉える事も無いのは何故か。


 我々は一体、何を以て「死」と認識するのか。・・人体は六十兆個にも及ぶ細胞によって形成された多細胞生物であるが、新陳代謝と云う仕組みの中で毎日およそ三千億から四千億の細胞が死に、その重量は二百グラムにも及ぶと云う。その一方で死んだ分の細胞は補われ、肝臓の細胞はおよそ一年、皮膚は二十八日周期で新しい細胞に入れ換わるとされ、骨は破骨細胞と芽骨細胞のバランスによって保たれる様に、総ての細胞は常に死ぬ事と産まれる事を繰り返す事で人体を構成し維持をしている。・・新陳代謝とは遺伝子に組み込まれた細胞の分裂と増殖とアポトーシスと云う細胞の自死が繰り広げる運動であり、人間はそれによって人体の正常な維持を統制している。


 人体を形成する細胞は、「分裂」と「増殖」と「アポトーシス」の機能を持つ「再生系細胞」を主体としながらも、心筋細胞や脳を形成する神経細胞と音を聴き取る有毛細胞など高度な役割を担った細胞は、「非再生系細胞」として分裂も増殖もせず死ぬだけの特性を持つ。・・、百五十億の神経細胞によって形成される大脳皮質では、一日あたりおよそ十万個の脳細胞が死滅すると言われ、百才迄生きていれば、その四分の一の神経細胞が死滅する事になるが、脳全体を形成する約一千億個の細胞から見れば高々四パーセントに過ぎず、ワークシェアリング機能を持つ脳の構造からすれば毎日十万個の脳細胞が死んだとしても大した問題ではない。この非再生細胞は「アポビオーシス」と名づけられ、寿命が尽きるように死ぬ事から寿死細胞とも呼ばれる。・・亦、遺伝子にプログラムされてはいないが、再生と非再生の過程で起こる事故によって細胞が壊死する「ネクローシス」がある。・・癌の発生は人体の脅威であるが、これは死ぬ事を忘れて増殖を続ける細胞が作り出す疾患であり、これによって如何に人類が死ぬ事に支えられているかを思い知らされる病気でもある。


 我々は、卵子と精子の出会いによって受胎した胎児は、母親の子宮で勝手に手足が生えて胎児に育つと誤解しているし、水中のオタマジャクシの尻尾が消滅し手足が出来て蛙へと姿を変えるのは単なる成長の過程と考える。・・亦、毛虫が蛹に変化して蝶になって飛び立ち、その羽に美しい模様が出来る様を見ても、それを生命の神秘等とは考え無いが、そこには生と死を巧みに操って進化を勝ち取る生命の驚異のシステムが存在する。・・毛虫と蝶が同一のものとは到底考えられないが、そのシステムは蛹の中で細胞の増殖と分裂とアポトーシスによる対等化変換が行われる事で成り立っており、蛇や甲殻類が脱皮をしているのとは訳が違う。


 子宮の中で細胞が分裂と増殖の過程でアポトーシスが彫刻刀や大工のノミの役割を果し、胎児の内臓や手足や脊髄や皮膚を形作っているのであり、胎児の手足が母親の胎内で勝手に生えて産まれて来る訳ではない。・・オタマジャクシの尻尾が消えて手足が出来て蛙に変態するのも、増殖細胞が胎児に形作られるのも、総ては細胞の塊をアポトーシスによって意図的に削る事で作られているのであり、そのシステムはスコットランドの病理学者J・F・カーによって発見され、ギリシャ語の「離れる」の意を持つアポと「落ちる」の意を持つトーシスの名をとって命名され、千九百七十二年に論文として発表された。・・このシステムが存在しなければ胎児は細胞の塊のまま分裂を繰り返す癌として育ち、子宮を破壊しながら母親が死ぬまで増殖を続ける事になる。


 アポトーシスとは細胞の自死ではあるが、人間の自殺の様に自ら勝手に死んで行くのではなく、システムの一環として正常な細胞が癌細胞のような「異常をきたした有害な細胞」になったり、「不要な細胞」になったと云うシグナルを受け取った場合に「自死装置」を発動する事によって起こる現象であり、これによって手足や顔や内臓などのすべてが形成される。・・掌の指が塊ではなく五本に分かれいてるのは、先ず指の無い細胞の塊が出来て、指の間の細胞がアポトーシスによって死滅する事によって出来上がるもので、これは細胞の一本一本をアポトーシスによって削りだしているようなものであり、このシステムが機能しなければ人間は塊のまま成長する事になるし、蝶もカエルも犬や猫も肉の塊のままで存在する事になる。


 何れにしても、一年も前の自分は死んだも同じで、今の自分を形成しているのは新しく生まれた別人である。・・死んだ細胞が生まれ換わり、それを繰り返す事によって、赤ん坊から少年になり大人へと進化するのであり、そのシステムを獲得しない人類が今日まで種を存続させていたとしたら、人類は線虫の様に先祖も子孫も無く、生も死もなく、雌雄もない微生物として生き長らえていたに違いない。・・幾多の生物が淘汰された中にあって、種の存続の鍵を握るのは進化と突然変異で有るが、その存続は死ぬ事と産まれる事によって維持されており、生と死が無ければ生物の進化は途切れ、残された種は何れ自然界の環境に順応できなくなって存続に終止符を打つ事になる。


 便器の中の糞便を拝む人は居ないだろうが、その糞便の大部分は胃の内側の上皮細胞や小腸の絨毛細胞と腸内細菌の死骸であり、その死骸無くして人体の健康と維持は有り得ない。・・人間の腸の中には約千種、百兆に及ぶ細菌が棲み腸内の花畑と呼ばれるコロニーを形成しており、その重量は脳の重さに匹敵するとも言われる。食事として口から摂取され胃液で溶かされた食べ物が腸へ運ばれ、それを大腸菌等の細菌が分解する事によって腸壁に吸収され、人体はそれを唯一の栄養として生命を養う。・・便秘は、食べ物の残骸が腸に溜まっていると誤解して安易に下剤を飲むが、腸内細菌にとっては殺人行為と変わらず、殺戮されて大腸菌不在の腸はより一層頑固な便秘に陥る。


 細胞や腸内細菌の生死は代謝の一環に過ぎないとして、それが「死と生に相当する」現象であったとしても人間の生死を同一視する事には違和感が有るが、生物にとって死と生は、これ以上でもこれ以下でもない。・・始まりには終わりがあると決め付けるのは人間の単なる思考癖であり、物事には始まりと終わりが定かでない現象は山の様に存在し、鶏が先か卵が先かの論争もそれによる。・・三十数億年の歴史を有する生物ではあるが、その大半は生と死の区別が曖昧な時代であり、その時代の生物には雌雄も親と認められるものも子供と認められるものも存在しない。・・「エレガンス」と呼ばれる体長わずか一ミリの線虫は、九百五十九個の細胞からなる透明な生物で、その生態は千九十個の細胞のうち、特定の百三十一個の細胞が決まった時期に死滅する事で保たれ、結果として身体は九百五十九個の細胞によって維持されているが、これを死と生の感覚を以て観察するのは無理がある。・・自然界には半分に切断されても両方とも死なず、何度切断しても生き残る事で種の存続を図る生物も存在するが、当然ながらそれらの生物には親子関係も死生観も存在しない。


 生物の生と死は遺伝子の問題であり、半分に切断されても死な無い生物や、延々と行き続ける線虫は遺伝子の塩基配列によるもので、これらの生物はそれを種の存続手段として、親も無く子孫も残さず、死ぬ事もなく生き続ける。・・生物の進化は、突然変異によって異なる遺伝子を混ぜると云う手法を獲得した事によるが、これは死なずに生き続ける生物が、死ぬ事によって種の存続を図る歴史の始まりであると共に、哺乳類に父親と母親と死の概念が誕生した瞬間でもある。





「死の正体」


 赤の他人が死んだところで何の感情も湧かないが、子供や未婚の女性が理不尽な犯罪の被害者となって残酷に殺されたニュースに触れると、何故か悲しみよりも怒りの感情が湧いてくる。・・地震や津波で大勢の犠牲者が出たと知れば、哀悼よりも得体の知れない危機感を覚える。・・ある日突然に、何の心構えも持たないままに余命宣告をされた時、悲しみや怒りの前に一瞬の戸惑いがあるが、その戸惑いの中に、人間が生きる事と死ぬ事の本質が隠されている。


 人間は多細胞生物であると共に、「意識」・「肉体」・「生命体」によって形成された化合物であり、人間が死ぬと云う事は化合物の分解現象であるが、それによって三体は三様の岐路に立ち別々の道を歩み始める。・・鏡に映し出される容姿は、意識と生命体が肉体によって具現化された肖像であるが、意識と生命体がその鏡に映し出される事は決してない。・・我々が目にする事が出来るのは肉体の死だけであり、生命体と意識の抜け殻となった遺体に取りすがって泣く事はあっても、その後の意識や生命体の行く末に感慨が及ぶ事はない。


 我々は無意識に死ぬ事を怖れてはいるが、それは飽くまでも漠然的であり、「何故、死ぬ事が怖いのか」と尋ねられても、その答えが自分の中にある分けではない。・・死に対する恐怖心は、人類が種の存続を意図してゲノムの一角に記した、「死ぬな生き続けろ」と云う塩基配列の為せる業であり、それが強迫観念として遺伝して我々の意識に脈々として受け継がれ、今尚死に対する恐怖心と生きる事への執着を煽り続けている。・・意識の中に植えつけられた、「死ぬな・いき続けろ」と云う遺伝子情報によって、我々は自分が死ぬ事を想像もしないのに無意識に死を恐れ、生きる意味も理解しないままに只管生きる事に執着している。・・医者に何の前触れも無く、「癌です。余命三ヶ月です」と宣告された場合、多くは悲しみや怒りや落胆よりも戸惑いの意識が優先する。これは出勤する事を義務付けられたサラリーマンが、靴を履いて玄関の扉に手を掛けた時に、突然「今日から出勤は不要です」と宣告されたのと同様に、出勤から解放された自分の所在に瞬時に理解が及ばない事が、自分が死ぬ事への一瞬の戸惑いを生じさせている。


 一度に大勢の人間が死んだニュースに得体の知れない危機感や不安を覚える背景には、想定外の事態に対して存続の危機を連想する生命体の不安感がある。・・生命体にとって事故や病気や寿命によって死ぬ事は想定内で、多少の誤差も想定した上で余分な人間を生存させて居り、様々な場所で結果として大勢の人間が死んだとしても、それによって危機感を持つ事も不安になる事も無いが、地震や津波によって一度に多くの生命体が奪われる事態は想定外であり、それによって存亡を危惧する生命体の危機感が、我々の意識に得体の知れない不安感を覚えさせる。


 人類にとって子供の存在は種の存続の要であり、その子供を産む未婚の女性は種の存続のシンボルでもある。それらの命を残酷に傷つけられたり理不尽に奪われる事は、生命体に対する冒瀆であり、その感情が我々の意識に怒りとなって現われる。・・事実、見知らぬ老人や中高年層が、それ以上の理不尽さや残酷さで殺されたとしても自分の縁故でも無い限り、怒りの感情が湧き起こる事は無い。


 生物にとって種の存続は絶対的な使命であり、人間の営みの全てもそれに照準が合わされている。・・死には、悲しく怖ろしく忌まわしいイメージしか湧いてこないが、人類の存続の為の最も重要なシステムの一環であり、死ぬ事なくして人類の種の存続は有り得ない。・・我々にとって死とは、今まで生きていた人間が遺体となって横たわり、その遺体が火葬場で焼かれて灰になる事であるが、それは単なる肉体の終焉であり、意識と生命体がそれで終わる分けではない。・・古来より死ぬ事を「逝く」と呼び遺体を亡骸と言い習わしているが、これは生命体が次の世界に「行く」事を表し、亡骸とは肉体が意識と生命体の「無き殻」となった事を示している。


 我々が怖れているのは肉体の死に過ぎないが、肉体自体がその死を怖れている分けではない。・・肉体の償却期間は生まれる前から設定されており、それによって老衰などの寿命が訪れるが、不測の事故や病気によって死ぬ事があっても、それらは既に了解済みであり、肉体は死ぬ事に一切関知しないし、それを怖れる機能も備わってはいない。・・肉体は生命体が種を存続させる為の媒体であり、肉体が寿命や重篤な疾患や怪我で壊れてしまえば、瞬時に元の状態に戻って拡散するのが生命体であり、その期に及んで躊躇する事も執着する事も悲観する事も無い。・・死の概念を支配しているのは意識であり、肉体が生命体を失う事によって起こる人体の分解は、意識に仕組まれた、「死ぬないき続けろ」と云う呪縛から解き放たれる時でもあるが、それは亦、意識にとって自己の存在がこの世から消滅する事に戸惑いを生じさせる時でもある。


 万物の霊長を自負し、宇宙の謎に迫る知能を有しながら、我々が自分自身の死に関する知識を全く持ち合わせていないのは不思議な現象であるが、これは肥大化した意識が死の仕組みを興味本位に理解し、それによって安易な自殺や安楽死や殺人で死を弄ぶ事を怖れた生命体の自己防衛手段であり、人類の種は死ぬ事に快楽や幸福を見出す事を何よりも危惧し怖れる。




 「輪廻」


 「人は死に変わり。生まれ変わる。」と云う思想は仏教によって生まれた。・・紀元前五世紀にインドに発祥した仏教は、今や世界三大宗教の一角を担う一大勢力であり、その東洋思想の神秘は一方の雄キリスト教徒の本拠地であるヨーロッパに於いても浸透し続けており、その思想とする洞察力は二千年以上の時を経ても一向に色褪せる気配は無い。・・にしても、仏教は一体何を根拠として、人が死に変わり、生まれ変わると説くのか。


 人間が死ぬと云う状態は、その人間がこの世から消滅すると云う様であり、人が生まれると云う様は、母親の胎内から子供が誕生すると云う現象であるが、何れも至って科学的な現象であり、宗教の領域と考えられる要素は何処にもない。・・両親の生殖によって母親の子宮の中で結合した精子と卵子が胚細胞となり、それが分裂とアポトーシスを繰り返しやがて胎児となって誕生する現象を「産まれる」と云う。・・人間と云う生物が、遺体という物体に変化する物質の変性が死ぬと云う事で、その物体化した遺体は九十九パーセントの酸素と水と炭とチョークと、微々たる量の鉄・亜鉛・リン・硫黄と云う元素によって構成された化合物であるが、それは何処にでも存在する有りふれた素材であり、この事象にも宗教の題材として特筆すべきものは見当たらない。


 火葬場で荼毘に付された遺体は其々の元素に分解され、天地不変の法則に従って大気に取り込まれ、水蒸気となって雲に滞留した後に雨や雪となって大地に降り注ぎ、何れ食物連鎖によって人体に帰り、骨壷の中に閉じ込められて寺や納骨業者に預けられるものは別として、残された遺骨も亦、廻り廻って連鎖の果てに人体に帰る。・・生命の誕生とは、死ぬ事によって自然界に拡散した生命体と遺伝子が炭素や石灰や鉄や亜鉛が水を取り込んで酸素と結合する現象であり、それが再び精子や卵子の基になって遺伝子を受け継ぎ、母親の胎内で再生される。そして生まれたた子供は少年に育ち、やがて青年から老人になり寿命が尽きて死に、そして再び元の状態に帰る。


 人間の死は厳かで、誕生は神秘にあふれているが、その死と誕生の狭間にある生前と死後の世界は謎に包まれており、誰一人としてそれを覗いた人間も解析した者も居ないが、だからと言ってそれが存在しない訳ではない。・・宗教によっては、道徳心や倫理観を啓蒙する説教の為の「方便」として、死後の世界が天国や地獄と称されるような世界に存在するとして、故に「真面目に生きた人は天国に行き、悪行を働いた者は地獄に堕ちる」と説くものもあるが、その方便だけを切り取って人心を欺く宗教家モドキや似非宗教も少なくない。・・この世の総ての現象や全宇宙の構造物は素粒子に始まる創造物であり、それは破壊によって分解された物質が粒子に分離されて空間に拡散し、フィードバックの法則によって集結して新たな物質とて結合する原理によって存在する。


 死後の世界とは、人体の破壊現象である死によって、粒子に分解された物質が滞留するところであり。・・生前の世界とは拡散した物質がフィードバック現象によって集結して胚細胞と成り、それが結集して胎児に結合する前の世界であるが、これらは別々の世界として存在する訳ではなく、一本の川の上流と下流の関係にある。・・その死後と生前を繋ぐ川は、三途の川の様にあの世とこの世を分けるものではなく、台風や銀河系のリングの様に一つの渦の中で存在しており、天国や地獄に分かれていたり、頭にリングを載せた神様や羽の生えた天使が存在し、鬼や閻魔様が待ち構えている様な処ではない。


 然し、生きている人間が死後と生前によって繋がる現象は、人間や哺乳類や植物と云った生物だけに存在する特別な現象ではなく、山や石や水と云った自然や宇宙を形成する総てのものに存在するパターン現象であり、それらとは一見何の脈略も関係も無いと思われる経済事情もその現象に支配されており、好景気の次には誰が何を意図しなくても不景気が起こり、その行き詰った不景気はやがて好景気の流れの中に取り込まれて行くし、インフレやデフレと云った現象も銀河の渦巻きのような現象の対極をそう呼んでいるだけで、一本の直線の対極にそれがある訳ではない。


・・道端や野山の石は誰が意図する訳でもなく其処に存在するが、その石もやがて風化して粒子となり、埃となって大気に取り込まれたり雨水によって地下に吸い込まれ、徐々に堆積してその圧力とマントルの熱によって石の成分と成り、地震や火山の噴火によって再び道端や野山の石となる。


 ハッブルなど高性能の天体望遠鏡が出来、物理学や数学と云った分析や計算に頼らなくても現実的映像として宇宙の仕組みを解明する事が出来るようになったが、天体望遠鏡の視界に広がる光景と、地球上の有り触れた現象の相似性は実に驚きに値する。・・台風の渦巻きや鳴門の渦潮が蚊取り線香のような形状である事と、宇宙に塵の様にに点在する銀河星団の形状は瓜二つであり、その形状が渦を巻きながら回転する様は余りにも似通っているし、その銀河の中で星の寿命が尽きて爆発し、その構成物質が塵やガスとなって飛び散り、それが再び集まって新たな星となって誕生する様は、人間が死んで産まれる様と相似している。


 これらの総てはフィードバック現象と呼ばれるもので、宇宙を含む自然界の総てはこの法則によって統一されている。・・それは、「結合」をキーワードとして、「破壊と再生」・「拡散と集合」・「混雑と秩序」という一見真逆に思える現象が想像以上に深い繋がりを持ち、これらが一定の「パターン」を作り出す事によって物質の形成が為されている事を示すもので、この現象から外れて存在するものは自然界の何処にもない。


 生死を繰り返すと云う人類の存続パターンも、破壊による拡散が、結合する力によって組織化されると云う宇宙の法則に従ったもので、死ぬと云う人体の破壊によって元々の原子に分解され、大気や大地に拡散し、天地不変の法則や食物連鎖のサイクルを経て、再び人体に取り入れられて卵子や精子を形成し結合への編成を始める。・・このサイクルを連綿と紡ぐのが人類の歴史であるが、それは太陽系に所属する地球と云うカプセルの中で起こっているつむじ風程度の微細なフィードバック現象であり。・・その太陽系も亦、天の川銀河の片隅に位置する微小な集団で、太陽の寿命を待つまでも無く近隣に超新星が出現すれば地球も亦、太陽と共に塵やガスとなって拡散し、更なる輪廻に組み込まれる。


 鮭やウナギが長い行程を経て、何処にでもありそうな似たような川ではなく、わざわざ親が育った河に帰り着くのは、帰巣本能と呼ばれるフィードバックであり。・・左翼思想に被れた全学連の若者が官憲から逃れた先は右翼思想のあだ花でもあるやくざ社会であった事は、左翼思想と右翼思想は限りなく遠くても、極左翼と極右翼は限りなく近い円の形状で存在する事を表し、それは誰が意図する事も無いフィードバック現象に組み込まれている事を示している。・・脳卒中で麻痺した手が徐々に硬縮し始めて、やがて掌が拳の様に固まってしまう現象も亦、アポトーシスによって形作られた筋肉細胞がフィードバック現象によって元の細胞に戻ろうとする事によって起こっている。・・ノーベル生理・医学賞を与えられた生化学者クレプスが提唱し、クエン酸サイクルとも呼ばれる「クレプス回路」とは、炭水化物の麦が麦芽糖になり、更にアルコールから酸や脂肪やたんぱく質から炭水化物に戻り、それを繰り返す事を証明したものであり、これも石や水の再生原理と何一つ変わる事が無い。


 仏教の経典の代表格に華厳経というお経があるが、これは人間の根本を為すのは唯意識のみであるとする思想を中心にするもので、それを一般的に「唯心論」と呼び、それに対して精神の実在を否定して唯物質だけが真の存在だとする科学信仰の「唯物主義」がある。・・人体が水と酸素と石灰と炭素と微々たる鉱石によって形成されているいるように、目にする事が出来る総ての物体は原子が集合した塊で、その原子は粒子から微粒子に、そして素粒子へと辿りつく。・・それらの物質は決まった形状を保って一定の場所に止まっているものではなく、或る時は人体に止まり、或る時は土壌を構成し、或る時は大気を廻って後に新たな物体の構成素材として蘇るが、これは形状を構成した物体が破壊され、粒子に分解された其々の物質が新たな物体として生まれ変わる唯物のフィードバック現象であるが、唯心的輪廻は飽くまでも人間の内面に言及している。


 唯物主義は目に見えないものは信じないと云う思想であり、その思想の行き着く先は、見えないものは存在しないという発想であるが、それによって導き出されるのは意識と命の不在である。・・唯心論とは仏教思想に基づくものであるが、仏教思想の根本とは、人間の心の中に無限の宇宙空間の様に広がる意識を一つの法則によって導こうとするものであるが、その意識は既に頑な煩悩に支配された三界六道の迷いの世界であり。人間はその迷いの世界の中で生死を繰り返す宿命であると説かれている。


 唯物主義者の発想は兎も角、人間が意識によって支えられている事は否定の余地が無いが、その意識は生まれる以前から前世の遺伝子によって既に下書きがされており、この世に産まれた人間は、先天的に下書きされた情報をベースとして人生を歩む事になる。・・自分の性格が至らないのは親の責任と親を責める子供の言い分は間違ってはいないが、その親の性格に影響を与えたのはその親であり、その親は亦、その親の影響を受けており、その連鎖は過去に於いては何処まで行っても途切れることが無く、その連鎖は子供から孫へと受け継がれ、誰かがそのフィードバック現象を違うものにしない限り、それはその家族が社会から淘汰されるまで延々とめぐり続ける事になる。・・その一族が総て、「遺伝によって作られた自分の性格は如何ともし難い」と諦観して生きれは、その意識はフィードバックの原理によってその一族に相応しい渦を作り、誰かが「性格を替えなければ駄目だ」と思念すれば、その人間はその性格によって新たなフィードバック現象を作る。


 人生とは生まれてから死ぬまでの区間を受け持つランナーの生涯と似ているが、ランナーとしての役割は死ぬ事で終わったとしても、遺伝子にコピーされた情報は次のランナー達のDNAにコピーされて生き続ける。・・人間とは、種の存続を意図する遺伝子の運び屋であり、生きると云う事は次世代に遺伝子情報を手渡す為の、終わりの無い駅伝レースの一区間を担当して走るのと変わらない。他人の為に尽くした情報も、他人を苦しめた情報も、自死した情報も感謝の念も怨念も、総ては自分の子孫の遺伝子の中に生き続ける事になるが、やがてそれはフィードバックして生まれ変わった未来の自分に組み込まれる。





 「生命体」


 「自然」と云う文字や言葉に馴染みすぎた我々には、それが、信じられないほど壮大な宇宙の原理によって形成されているとは到底考えられない。・・山があり草木が茂り、森林が山を被い、縦横に河川が横たわり、木立に風が通り、落ち葉が舞うと云った見慣れた光景は、世界中の何処にでも見られる光景であり、それを人は自然と呼び、その自然界に雨や雪が降り、冬が来て池に氷が張り、それが溶けて春が来る様を自然現象として片付けているが、それは自然界に意思が存在するかのような驚くべき「自己組織化」によって起こる必然的現象である。・・台風と云う自然現象は太陽と海水によるフィードバック現象によって起こっており、太陽の夏の日差しによって暖められた海水温が臨界に達すると、蒸発した海水によって巨大な雲が発生し、その雲が法則に従って渦を巻き台風となり、暖められて蒸気になった海水を更に取り込み、それによって海水温は臨界を脱して適温と成り秩序を取り戻す。


 自然界の自己組織化と切っても切れない関係にあるのが、「自己相似化」と云う現象で、それによって樹木は樹木の形状になり、河川は河川の状態になり、人間は人間らしく、猫は猫らしく、犬は犬らしい形状となる。・・外国や見知らぬ地方を旅しても何処にも似たような山や川があり、砂丘や砂漠には一様に風紋と呼ばれる模様がある。・・然し、どれ一つとして同じものは存在せず、一卵性双生児も瓜ふたつではあるが、全く同じコピーではなく、我々の十本の指の指紋もこれほど似ていながら世界中の誰とも一致しない。・・似ている様で似ていないのも自己相似性の特徴で、指紋と同じ原理で形成される砂の風紋も、似たり寄ったりに見えても同じものは二つと存在しない。・・自然界はそれぞれが自己を似せるパターンによって自己を作り上げており、死んでも死んでもコピーの様な容姿を持つ人間が誕生するのも、自己組織化と自己相似化によるパターン現象であり、そのコピーの本体が存在するのが人体を形成する細胞核の中で、それは遺伝子として存在する。


 地球上に生命が誕生したのはおよそ三十八億年前とされ、それは原始の海の中に存在する物質が化学反応を起して生命誕生のきっかけとなる「一本鎖構造」の「NRA」や「タンパク質」が生まれ、それによって「RNPワールド」と呼ばれる「自己複製可能」なタンパク質の合成が出来上がったといわれる。・・「二本鎖構造」のDNAを遺伝子情報として持つ始原生物が現れたのは、それから三億年後の三十五億年前とされるが、それは未だ大腸菌のような単純な構造を持つ「単細胞」でDNAを収納する核を持たない原核生物であったと言われ、その原核生物の時代は、それから二十億年の時を刻むが、その間の生物に死ぬと云う概念はなく、ひたすら分裂と増殖に勤しんでいた。 


 原核生物は遺伝子のセットであるゲノムを一つしか持たない一倍体の生物で、同じ遺伝子をコピーしながら無限に増殖を繰り返し、そこには親子と云う感覚も無く、急激な環境変化による事故死のネクローシスが起こる以外、自ら死んでいくアポトーシスも存在しない。・・DNAを収納する核を持つ真核生物が誕生したのは十五億年前と言われ、それは未だ一倍体の生物であったが、その中から接合によって一時的に二倍体になるものが現れる。それが過酷な環境下になると接合し、遺伝子のセットを二組持つ二倍体になり、胞子を形成して休眠状態に入る。・・そして環境条件が良くなれば次の固体をを残す仕組みが出来上がったと言われるが、それは同時に生物に死の概念を齎せる現象でもある。


 今や日常会話に上るほどに浸透したDNAやゲノムも、その実態となると意外と知られていない。・・「ゲノム」とは細胞核に内蔵された、一つの固体を作り上げる為に必要な全情報の総体であり、人のゲノムをヒトゲノムと呼び、犬はイヌゲノムと呼び習わす。・・「DNA」とは、細胞の核の中に収納されている遺伝情報を伝える物質を表すものであり、それは「デオキシリボ核酸」と呼ばれる化学物質で、二本の長い紐状の分子で二重螺旋の構造をしており。紐の中に並んだ「A・アデニン」・「G・グアニン」・「C・シトシン」・「T・チミン」と云う四つの塩基が様々な順番で無数に並び、その配列によって遺伝情報を伝えるシステムになっている。・・ゲノムの総てをDNAと呼ぶわけではなく、その中に配列された生命体を作り上げる為に必要な情報となる「タンパク質の設計図」を特定して「遺伝子」と呼ぶ。・・その情報の大半は意味の無い塩基配列と言われているが、それは飽くまでも人間の体を作り上げる為の情報以外には興味を示さない、医学や生理学側の解析が導き出した結果に他ならない。・・ 因みにDNA鑑定とは、その人間の塩基配列の並び方を特定し、意味のある情報である遺伝子が、何番目の「染色体」の何処に存在するかを鑑定するもので、それによってその遺伝情報が誰から齎されたかが明らかになる。・・染色体とは、細胞が分裂する時期にDNAが凝縮して出来た特殊な構造体を指し、人間は細胞分裂の中期に二十三対四十六本の染色体を観察する事が出来る。


 人体の基になるタンパク質を遺伝子が実際に作り始める事を「遺伝子の発現」と呼び、それを評してスイッチが入ったと言うが、そのシステムに於いて重要な役割をしているのは、メッセンジャーと呼ばれる物質「RNA」である。この物質は遺伝子の情報をコピーするメモリーカードの様なもので、遺伝子は細胞の核の中に保存されており、タンパクの製造スイッチが入る事によってRNAはその情報を細胞核の外の細胞質にあるリボソームと呼ばれるタンパク質製造工場に運び、設計図を基に二十種類のアミノ酸をつなげてタンパク質を合成する。


 その遺伝子の活動は原核生物から更に五億年の時を経て、細胞が集合体として一つの固体を形成する多細胞生物を産む事になるが、人間はそれによって六十兆個の細胞が集合した二倍体の多細胞生物である。・・二倍体生物とは、父親と母親から一組ずつ遺伝子のセットを受け継ぎ、二組の遺伝子セットを持つ生き物であるが、それは亦、「雄」と「雌」と云う性別が現れた事を意味すると共に「死」と云う現象が現れた事も意味する。・・これによって人類の種と成る生命体の原型が出来上がり、幾多の変遷の中で突然変異と進化を繰り返し、生命体と肉体と意識の化合物である人間が誕生する。・・雄の精子と雌の卵子が結合すると云う事は、其々の遺伝子セットを持ち寄る事であり。遺伝子のセットを二つ持つ二倍体に成る事によって、ゲノムを長時間に亘って保存する事が出来、それは遺伝子情報を確実に残せる大きな利点であり、環境が良くなれば二倍体の胞子がまた新しい固体を造る。それによって生物は確実に遺伝情報を伝え、受精卵は全く新しい遺伝子の組み合わせを持ち、更なる生殖活動によって遺伝子のシャッフルが行われ、環境に適応したりバクテリアやウイルスと云った外的に抵抗力を持つ子孫が誕生する。 


 然し、生命体の進化に於いて最も重要な事は不良品の選別であり、「生きるべきか、死ぬべきか」をシグナルによって判断し、自己が存続に値しないと判断すればアポトーシスのスイッチを入れる事であり、それによって人類の種は強かに生き残るが、その為に常に予備の自己を作り消去すると云う操作が機械的に行われている。・・人類の進化は、無効を排除し有効を残す事によって維持されており、その為に常に予備の生命体がキープされ、意識の中を「自分は駄目だ」と云う存念が支配した時に、人類の種は自分のアポトーシスと云う自滅スイッチを押す。・・人間が寿命を全うするか否かは運命に支配されているのでは無く、アポトーシスのスイッチがインになるかアウトになるかに掛かっている。


 では一体誰がアポトーシスを仕組み遺伝子を操っているのか。・・人間は自分の意思で「生きている」のか、それとも誰かに「生かされている」のか。・・自分の意思で生きているのならば、自分を形成する六十兆個の細胞と、その一つ一つの細胞の中で画策される生命誕生のシステムを如何に理解するのか。・・仮に生かされていると考えるのであれば、それは誰の意思で、何の為に生かされているのか。・・そもそも、自分の意思で生きているとしても、誰かの意図によって生かされているとしても、その以前に生命体の正体とは如何なるもので、何を意図して存在するのか。・・人間の肉体が多細胞の集合体で、その一部分として存在する脳が意識を生み出して、今やその意識が自分を支配しているとしても、生命体の存在が無ければ如何に意識や肉体といえども存在する事さえも適わない。


 アメリカの生物学者ロバートホロヴィッツが、多細胞動物のゲノム解析の先駆者として有名なイギリスの生物学者シドニー・ブレナーの研究を基にして、「遺伝子に制御された細胞の死に方」のメカニズムを解明し、「期間発生とプログラム細胞死の遺伝制御に関する発見」のイギリスの生物学者ジョン・サルストンと共にノーベル生理学・医学賞を受賞したのが二千二年。・・遺伝子の解明は未だ途上とは云え、仕組みが解かれた事によって、全容が明かされる日は遠くは無い。・・最早残る謎は、ミトコンドリアと呼ばれる糸状に並んだ顆粒状構造物に絞られているが、この物体は殆ど総ての生物の細胞質中に存在し、細胞内代謝に重要な役割を果している糸状体物質で素材は有りふれたタンパク質と脂肪ながら、この物質をおいて生命体と目されるものは存在しない。





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